『日々自分の十字架を負うて』
四旬節第三主日礼拝 イザヤ書63・7~14、ルカ9・18~27   


 四旬節第三主日礼拝のこの日、イザヤ書63章7~14節、ルカによる福音書9章18~17節を分かち合う。イザヤ書63章9節を新しく翻訳された協会共同訳では「彼らが苦しむときいつでも、主が苦しまれた。御前に仕える御使いによって彼らを救いその愛と憐れみによって彼らを贖い/昔からずっと彼らを負い、担ってくださった。」と訳されている。いつもヤーウェ(神)は共におられる。イスラエルの民はそのことを「紅海の奇跡」(出エジプト記15章)で知らされる。しかし、その神の大いなる業を忘れて神に対して不信を抱き、神を蔑ろにした生活を送り、神に背き続けた結果バビロンに捕囚されたと言うことに気づき、神の偉大な業を再び想起する。

 わたしたちも順風満帆な時は神を賛美する。しかし逆境になると、主を忘れる。「苦しいときの神離れ」が起こる。紅海の奇跡後、民はつぶやく「エジプトにいたならば…」そして「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」(出エジプト16章3節)と、神を信じていると云いながら、逆境に陥るとすぐにつぶやき、不平を言う。弟子たちもまた同様であることを知る。ルカ9章19節にはいわゆるペトロの「信仰告白」そして、受難予告が語られる。ペトロをはじめとする弟子たちはイエスの「受難予告」の意味を誤解している。イエスは「日々自分の十字架を負うて…」といわれている。

 カトリックのドミニコ会の司祭で神学者、聖書学者、説教者であるティモシィ・ランドルフは、ユーモアのある人だ。彼が書いた本にこんな一節がある。

 ある日曜日の朝、母親が「教会に行く時間だよ」と言って息子を揺り動かして起こそうとした。効果なし。10分後、彼女は再びやってきた。「すぐ起きて教会に行きなさい」。「行きたくないんだよ、母さん。とても退屈なんだ。なんでわざわざ教会なんかに」。「理由は二つよ。日曜日には教会に行かねばならないのよ。それにあなたは教区の主教でしょう」。西欧には神を信じる人は多いが、日曜日の教会出席者は急減している。人びとは、教会のような「制度化された」宗教よりも、スピリチュアリティのほうに興味がある。イエスを受け入れるが、教会に行くことを拒む。という背景がこの言葉の背後にはある。すなわち、イギリスの世俗化がこの背景にはある。

 イエスはそこにいる人たちに言われる。この皆(ルカ9章23節)は弟子たちを指していると考えたが、そうではなく、イエスの周りに集まっているすべての人を指している。イエスはそこにいたすべての人に「日々自分の十字架を負って…」と言われた。先に紹介したティモシー・ランドルフは『救いと希望の道』という本でイエスの十字架の道を語っている。わたしの入院中に川島貞雄先生にも宣教をお願いした。先生はマルコ福音書と原始キリスト教の研究者である。

 マルコ福音書には、「弟子の無理解」と言うことが語られていることが研究によって明らかにされている。
 レントのこのとき、一人ひとりが「日々自分の十字架を負うて」というイエスの言葉を心にとめ、主が担われた十字架の重さを知ると共に、主に従う者として主の十字架を負うものとして歩みたい。それは適わずともそのような姿勢で聖書の言葉に耳を傾けたい。