【いのちを得るために】
 アドベント第2主日メッセージ 
列王記上22章6~17節・ヨハネ福音書5章36~31節


 水曜日の夕方、アフガニスタンで医療活動、いのちの水を確保するための井戸掘り、そして全長24キロの用水路を造るために独学で「土木学」などを学び、6万人の雇用を生み出しているNGOペシャワール会現地代表の医師中村 哲さんが銃撃され、死亡したという報道であった。衝撃で仕事が全く手につかなかった。

 教会では彼の働きを微力ではあるが、黎明保育園と風の子との共同バザーである「おまつり広場」などの収益で支援をしていた。また黎明保育園でも10年程前だと記憶しているが、彼の働きを支援したと記憶している。医師として半年間、日本の病院で働き、生活費を稼ぎ、残りの半年間は現地アフガニスタンで復興支援を30年以上続けた。

 「黎明」でもそのことに触れたが、本棚から一冊の本を取り出して読んだ。それが作家、澤地久枝さんが中村 哲さんをインタビューして出来た『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』である。その中でクリスチャンである彼がなぜ、現地のモスクの建設まで支援したのかがこのように語られている。

 だからよく、キリスト教会のほうから、イスラム教徒と接して、最近はモスクまでつくっているので、「矛盾はないのか」と言われるけど、矛盾はありません。それよりも、ブッシュ大統領-私と同じ宗派ですけれども-のしていることはとんでもない話しです。聖書には「報復するな」ということは書いてあっても、「報復爆撃して何万人も殺せ」なんてことは書いてはいない。「十字軍」というぶっそうな言葉も言っていました。
 私は、日本人がキリスト教というときに、あれはほんとうのキリスト教ではなく、ヨーロッパ教とでもいうものがあって、それをキリスト教と勘違いしているんじゃないかという気がします。
と澤地さんのインタビューで答えている。

 中村 哲さんは論語にも通じている。彼はこのようにも言っている。論語や聖書を学んで得たものが大変役に立ちました。ここで「語る」とは、必ずしも言葉ではありません。行いや態度でしか語れぬこともあります。

 聖書に生きた中村 哲さんの言葉には不思議な魅力と力強さが共存している。それは賀川豊彦にもあてはまる。誤解を招くかもしれないが、聖書は読むものではなく、生きるもの、それを行動原理とするとき宗教の垣根を越えて、アフガニスタンの人々にも伝わっていることを私はあらためて「対談集」を読み、確認した。

 今日わたしたちには二つの聖書の言葉が与えられている。それは列王記上22章6~17節、ヨハネ福音書5章36~47節である。ここには400人の王に忖度する預言者が登場し、ミカヤだけが真実を語る預言者として描かれている。

 「その戦いは敗れる。主はあなたに災いを告げておられるのです。」これによってミカヤは獄に入れられる。しかし彼は神の言葉に生きたがゆえに真実だけを語る。もう一つはヨハネ福音書5章36~47節である。

 イエスは数々の奇跡を通して、困窮し苦境に苛まれている民を助ける。しかしそのイエスの言葉と実践はイエスに敵対する者たちには当然受け入れられるはずがない。それに対してイエスはこのように語っている。「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。」(ヨハネ福音書5章46節)聖書(旧新)は、イエスキリストを証しするものであるという。イエスを受け入れるとは聖書に生きることに他ならない。二本目のローソクの灯火を見つめ、待降節第二主日、共に祈りを献げよう。