【キリストと共に】
ヨハネ黙示録20章1~6節

 20章1~6節以下にある「千年王国」を、アメリカの福音派の人たちは文字通りに受けとめている。

 詩編90編4節「千年といえども御目には/昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。」というみ言葉がある。それに関連すれば、神はこの世界、被造物を六日間で作られ、そして七日目に安息されたと創世記2章1~4節に記されている。

 この「千年王国」をめぐって様々に解釈、受け止め方がなされてきた。抑圧され、虐げられた民にとってはその日が一刻も早く到来することこそが、祈りであった。

 宗教改革者M・ルターを考える時、彼の「ドイツ農民闘争」への処し方は批判されてしかるべきである。そのとき、トマス・ミンツァーのことを忘れることは出来ない。彼は徹底的に虐げられ、抑圧された側に立ち続けた。

 教父エイレナイオス、テルトゥリアヌス同様にその時を信じ、待ち望んだ。社会不安となり、先が見えないとき、危機状態に陥るとき、この考え方は支持される。

 ある人がこんなエピソードを紹介していた。「ある男が、天国で神と会話をしている夢を見た。『神さま、あなたにとって百万年とはどれほどの長さですか』と尋ねると、神は『わずか一分だ』と答えた。『では、あなたに百億円?はどれほどですか』。『ああ、ただの百円ほどだ』。男が、「ああ、愛する神さま、どうかわたしに百円下さい」と言うと、神は答えた。『一分だけ、待ちなさい』。

 わたしたちにとっての一分と神の一分は違う。わたしたちの長さ、単位の規準で神の時を推し量ることは出来ない。しかし、先ほど紹介したように社会不安が起こり、社会が蝕まれていく時、「千年王国」を待望してしまう歴史があることを知らねばならない。。

 一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖を手にして登場する。天使の役割は悪魔、サタンを「千年の間縛る鍵をかけて閉じ込める。」「首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣も像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。」すなわち、ローマ帝国に対して、抵抗し、皇帝崇拝を拒否し、自分の思想・信仰を貫いた人たちである。 今なお、95歳で精力的に与えられた道を歩んでいる人がいる。その人の名は渡辺信夫である。彼はカルヴアンの研究者で『キリスト教綱要』の訳者としても知られている。また開拓伝道で「東京告白教会」を創設し、その教会の牧師を長く務めた。『戦争で死ぬための日々と、平和のために生きる日々』という自伝がある。

 黙示録の時代、徹底的な弾圧、迫害が彼らを苦しめた。中世ではペストや戦争が、そして近現代では第一、第二次世界大戦が…大きな傷跡を残した。

 学徒出陣で戦争に参戦した彼は、敗戦後、「その道は主の御心ではない」と確信する。そして「キリストに従う」。わたしたちには、中世、近代のようなこの世の終わりという切迫観は希薄である。

 しかし、コヘレトの言葉(4章1~3節)にあるように様々な矛盾に苛まれている人たちがいる。「身の丈」発言の大臣に象徴されるように「格差」が容認されている。何時、終末が来るのか、千年はどれくらいの時間なのか、わたしたちにはわからない。だからこそ、わたしたちは「主の祈り」を祈るのである。社会正義を貫く道は「高価な恵み」を生きる道ではあるが、その道は険しい。共に歩まれる主を信じ、聖霊の導きを信じよう。そして主イエスが再び来られる日に備えてこの「中間時」を生きるものとして歩みたい。