【福音を生きる智恵】
ヨハネ黙示録13章11~18節
                       
 「もう一匹の獣が地中から上ってくるのを見た。」とヨハネは語る。ヨハネ黙示録が書かれた時代、ローマの覇権は絶大で、地中海まで及んでいた。皇帝崇拝は強制的なものであった。

 『朝日新聞』の書評で本田由紀が『詳しすぎる教育勅語』を紹介している。ご真影に対する畏敬、聖なる存在が語られるようになっていく経緯がそこには記されている。内村鑑三は「教育勅語」に対して礼を失した。という理由で国家神道支持者たちによるキャンペーンで一高を追われた。国家のために戦う。その犠牲は尊いことだ。という思想が過去に何を生み出したのかを私たちは考えねばならない。

 時流(場の空気)に流されない、信念を曲げず、神の前に誠実に生きたのが預言者である。列王記上にはエリヤという預言者が登場する。彼はバアル崇拝を徹底的に批判する。そして干ばつを預言する。その結果、命を奪われる危機に見まわれる(列王記上18章)。そのエリヤをカラスが養う。彼の預言通り、その国に干ばつが襲う。彼はバアルの預言者たちと戦い、勝利する。神の公平に生きた彼はいのちを賭して為政者に立ち向かう。そしてアハブ王に審判が下される〔「絶ち滅ぼす」(列王記21章21節)〕と宣言する。ここに権力者に阿(おもね)ることのない、預言者の姿が映し出される。聖書に登場する預言者は、神の正義と公平に生きた人たちである。

 次に小羊の角に似た二本の角の獣が登場する。これはダニエル書8章3節以下と重なり合う箇所でもある。「一頭の雄羊が川岸に立っていた。二本の角が生えていたが共に長く、一本は他の一本より更に長くて、後ろの方に生えていた。見ていると、この雄羊は西、北、南に向かって突進し、これにかなう獣は一頭もなく、その力から救い出すものもなく、雄羊はほしいままに、また、高慢にふるまい、高ぶった。これについて考えていると、見よ、西から一頭の雄山羊が全地の上を飛ぶような勢いで進んで来た。その額には際立った一本の角が生えていた。」(ダニエル書8章3b~4節)

 この二本の角(黙示録13章11節)を持つのは小羊ではない。それはエリヤが対決した「偽預言者」なのか、小アジア神殿「祭司」なのか、ドミティアヌス帝を崇拝させるように仕組んだ。隣国(植民地)のキリスト者たちに「神社参拝」を強要したかつての教団指導者のように。

 15節以下をある聖書学者は覇権と密接に関係している貨幣として、解釈する。すなわち、ローマの権力が第一の獣で、第二の獣はローマによる経済支配である。経済が豊かでなければ「安心」は出来ない。現一万円札は原価が一万円ではない。そうではなく、商品が一万円の値打ちがあると国が認めているので、その商品は一万円と交換できる。これが貨幣である。ローマ帝国の貨幣は、ローマ帝国の権威、権力、覇権の象徴として皇帝の肖像が刻まれていた。ローマ帝国は市民と支配地の人々に国家に忠実であることを強いた。あの戦前の「教育勅語」が国に対して忠実であることを強いたように…逆らう者は、問答無用で「非国民」と言うレッテルが貼られた。 数字の666は、不完全数で、この数字が三回繰り返させることでそのことが強調される。それは暴君ネロを示唆している。福音に生きるとは、聖書に生きることであり、すなわちどのような事態の中にあってもうろたえず、時流に流されることなく、迫害、弾圧にあろうとも権力にも阿(おもね)ることなく、生きることである。