【白い衣を身につけた民たち】
ヨハネ黙示録7・9~17節
            
 先週、私たちは今日の「公現日」で読まれるマタイ福音書2章の星に導かれ、遙々東方から来た「占星術師」たちがそれぞれの商売道具であるとされた「黄金」「乳香」「没薬」を飼い葉桶に寝かせられていた嬰児を「メシア」と信じ、跪き、それぞれの宝物を献げ「夢でヘロデのところに帰るな」というお告げがあったので、「別の道を通って帰って行った」占星術師たちに注目し、マタイが表現した「別の道」について思いを寄せ、黙想した。すなわち、キリスト者になるということは、今までの生き方を変えることである。すべては主のみ手にあることを信じ、この世の価値観から解放され、聖書に沈潜すること、聖書に聴くことに他ならない。

 今日は「白い衣を身につけ」、棕櫚の葉っぱを持ち、賛美した人たちについて考えることにする。白い衣のことは3章のサルディスにある教会に出てくる。この教会をヨハネは厳しい目で見て、評価している。「あなたがたが生きているとは名ばかりで死んでいる。」「目を覚ませ。」しかし少数ながら、「衣を汚さなかった者たちがいる。」それが「白い衣」を身につけた人たちである。

 日本におけるボンヘッファーの研究者でもあった故村上 伸牧師の『ヨハネ黙示禄を読もう』という本から大いに啓発され、刺激を受けた。彼は、この人たちを「殉教者」として捉えている。

 現代では、D・ボンヘッファー、M・キング牧師ジュニア、ロメロ大司教はイエスを信じ、その言葉に生きたに違いない。イエス同様に(ルカ23章34節)ステファノ(使徒言行録7章59、60節)は、いのちが終わる最期の時まで、執りなしの祈りを献げた。

 14万4千人は、終末の時、「来臨」の時に祝福される。そして殉教者もまた祝福される。この数字は教会を象徴しているという人もいる。この人たちは種族、民族、言葉がそれぞれに違っている。多様性がある。イエスの福音は垣根を越えてもたらされる。その者たちは、主を賛美する。人は贖われたことを知ったとき、生きる力が与えられる。その者たちは、棕櫚の葉を手に持っている。イエスがエルサレムに入城されたとき、棕櫚の葉、すなわちなつめやしの枝を持って迎え入れた。イザヤ書4章2節以下には「エルサレムの将来の栄光」が記されている。この者たちは「白い衣」を身につけた者たちに他ならない。

 宗教社会学者の橋爪大三郎と社会学者の大澤真幸の対談集『アメリカ』には、アメリカを理解するためには、宗教改革、清教徒革命、ピューリタンの歴史と思想を知らねばアメリカは理解できないという。国際基督教大学副学長で、神学者の森本あんりさんは、自著『反・知性主義』の中で、元来「片務契約」(ただ恵みによってのみ与えられる一方的な神の選び)のキリスト教が「双務契約」となった。その結果、アメリカの教会ではギブアンドテークという考え方が次第に支持され、サクセスストーリー、アメリカンドリームという考え方が、圧倒的に民衆から支持され、アメリカ独特のキリスト教が派生する。14万4千人、そして白い衣を身につけた者たちに共通する者はキリストに対する信従に他ならない。スミルナの教会に宛ててヨハネは語る。「死に至るまで忠実であれ」と、この言葉を心に留め、それぞれに示された道を歩み、その道を歩むために「主の食卓」の招きに応答しよう。