【封印が解かれるとき】
ヨハネ黙示録8章1~5節

 七番目の「封印」が解かれるその期(とき)「沈黙」がありました。新しい聖書協会共同訳では「小羊が第七の封印を解いたとき、天は半時間ほど静寂に包まれた」と訳しています。8章1節のこの言葉は封印が解かれ、天使がラッパを吹き、もう一人の天使が香を祭壇に献げる準備の時です。

 わたしたちは日常生活の中で、「沈黙」を意識的にすることがあるでしょうか。カウンセリングの世界では「沈黙は創造を生み出すときである」と、いわれます。「傾聴」すなわち、傍らに居るということは、相手の沈黙を受けとめることによってはじまるといいます。神さまの前に「沈黙」するということは神さまの言葉を受けとめるためには大切な準備の時です。旧約聖書ゼファニア書1章7節には「主なる神の前に沈黙せよ。主の日は近づいている」とあります。ゼファニア書はアモス書を読むことで理解が深まります。義なる神さまは世界の審判者として語られます。それが「主の日」ということです。ヨハネ黙示録の時代、ローマの悪政に民衆は苦しんでいました。その時の王、ドミティアヌス帝は、暴君でした。ローマの大火をキリスト者が起こしたとデマを出したネロに匹敵する王こそがドミティアヌス帝です。

 かつての日本が「国家神道」によって国が作られ、天皇を「現人神(あらひとがみ)」として崇拝することを国民の義務としたように、彼は自分を神として崇拝しない者には容赦のない罰を科しました。当時のキリスト者は彼らの目から見れば「無神論者」と見なされ、取り扱い要注意人物の最たるものでした。皇帝を崇拝しないゆえに迫害・弾圧の中でヨハネは民を励まし、希望を与えます。「沈黙」はその希望に通じるときです。 

 遠藤周作は『沈黙』で、青銅のイエスが「踏むがいい」という言葉を発したと、書きます。青銅のイエスが声を発するということは常識では考えられません。しかし、わたしたちの苦しみ、嘆きを受けとめて下さる神さまは、徹底的にわたしたちに寄り添い、「同伴者」として歩んで下さる。というメッセージがこの「踏むがいい」という言葉にこめられているのです。彼はここで、キリスタン弾圧だけではなく、様々な「不条理」を視野に入れて書いています。そして「踏むがいい」といわれたイエスは、今も十字架に架けられたままのキリストである。それゆえに、「同伴者」として歩まれる方であると、彼は語ります。これは遠藤の「信仰告白」でもあります。「贖罪論」としてのみでイエスの「十字架」を捉えると、このような様々な「不条理」を問うことも、その中に長いトンネルの先には希望があることを見出すことは出来ません。

 裁きのラッパが天使たちによって吹かれるとき、もう一人の天使たちは香を焚いて準備に入るとき、ローマへの裁きがはじまります。目に見える繁栄に酔いしれ、自己中心的な生き方を誇示し、キリストの恵みの内にあることを見出すことが出来ないならば、主の恵みはあたえられません。神さまの声を聴く、静まってその声に耳を傾ける。すなわち祈るとき、道は開かれるのです。そのことを心にとめ、常に自分をふりかえり、日々の生活の中心に聖書を据えるとき、おのずから道は開かれます。その備えを怠るならばわたしたちは、終末を恐怖のときとしてしか受けとめることは出来ません。主の声を聴くものとして、「沈黙」の期を大切にしましょう。