【主の食卓に招かれて】
ヨハネ黙示録3章14~22節

 アジアにある七つ目の教会はラオディキアの教会である。ラオディキアは紀元61年の大地震で壊滅的な打撃を受けるが、自力で復興した。金融業(銀行)、羊毛とその製品によって、また医学校,,、特に眼科で有名であった。町は裕福であった。その教会は、冷たくもなく熱くもない。「なまぬるい」とヨハネが叱責する教会である。なまぬるい信仰をここでは厳しく叱責している。熱心であるということは「沸騰する」という意味がある。そしてそのような熱心さがなければ、迫害・弾圧の中でイエスを主と告白することは難しい。

 エフェソの教会は「初めの愛から離れてしまった教会」、スミルナの教会は「サタンの集いに属する」と非難されるような異端がいる教会、ペルガモンの教会は「バラムの教えを奉ずる者、偶像崇拝、淫らな行い、ニコライ派の教えに信奉」する者たちがいる教会、ティアティラの教会は「イゼベルの教えを大目に見て、偶像崇拝をしている」教会、サルディスの教会は「死にかけている。行いが完全ではない。」フィラデルフィアの教会は「弱いが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないとは言わなかった教会」である。フィラデルフィアの教会には非難らしき言葉は見当たらないが、それ以外の教会にはそれぞれ問題がある。そして最後のラオディキアの教会は「なまぬるい」と叱責されている。

 「口から吐き出す。」この言葉は実に厳しい言葉である。吐き出すとは、いらない。ということを想像させる。物質的には豊か、しかし霊的には貧しい。すなわち、惨め、哀れな、貧しい、目が見えない、裸である。というネガティブな評価をされているが、ここに属する教会に集う人々はわかってはいない。自分の欠点が見えてはいない。とはっきりと語られる。この評価の言葉をわたしたちは自分のこと、この教会だけを指してはいない、と言えるのかが問われている。

 火で精錬された金、裸の恥をさらさないための白い衣、目が見えるようになるために、目に塗る薬を買いなさいと勧めている。

 わたしは「見よ、わたしは戸口に立って、叩いている。」という言葉と関連づけて読みたい。イエスを受け入れるとは、イエスに目を向ける、イエスに倣うことである。イエスを受け入れるとは聖書の言葉に生きることであり、みことばに生きることである。イエスの弟子たちは、嵐の時には怖じ惑い、イエスが「目を覚ましていなさい」(ルカ22章34節)と言われたゲッセマネの祈りの時(マルコ14章32節)には眠ってしまう。またトマスは復活の主が顕れたのにイエスを信じることが出来ない。(ヨハネ20章25節)といっている。目を覚ましていなければ、イエスが来られてもわからない。教会に対する厳しい言葉がここにはある。戸口に立って扉を叩く。この声を聞くと言うことが聖書に生きることである。主の食卓は誰にでも開かれている。その食卓は恵みの食卓である。しかしその招きに応答するためには、わたしたちは目を覚ましていなくてはならない。イエスは来られる。マラナ・タ(主よ、来て下さい)という祈りが唱えられる場所が教会である。

 荒井 献さんの近著『キリスト教の再定義』には、あるキリスト者の歩みが紹介されている。この人は秋田県大曲教会の役員で、大曲教会の礎として、徹底的に教会に仕えた。戦前の「天皇制」の中で、主を主と告白する生き方を貫いた人である。「なまぬるい信仰」では迫害・弾圧下の中で生きることはできない。そしてそのような「沸騰した信仰」が教会を造り上げていくことをわたしたちは知らねばならない。わたしたちの信仰が問われている。そしてわたしたちの教会が問われている。