【明けの明星を与える】
ヨハネ黙示録2・18~29節

 使徒言行録16章14節には「ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開いたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いていた。」と記されている。

 パウロは女性に対して偏見があった。コリント信徒への手紙一11章前半でそのことがわかるという人たちがいる。ローマ信徒への手紙16章を読むと、女性の名前が記されていることからすると、パウロは当時の時代の人としては進歩的だ。11章の女性のかぶり物も彼の主張というよりも当時の教会での女性に対する見方を表していると、読むことも出来る。

 ティアティラは、ペルガモンから内陸に80㎞ほどいったところに位置していた。このティアティラには紫布商人リディアがいた。この教会は愛、信仰、奉仕の教会で堅忍の信仰によって養われていた教会である。とヨハネは語る。しかし…ということでそこにも偶像崇拝がはびこっているという。イザベルという名前の女性が登場する。この名前でこの教会(時代)の人々は列王記上16章31節、18章4節に登場する異邦人の女性で南北朝時代の北王朝アハブの妻を思い起こしたであろう。 

 彼女はバアル崇拝を持ち込んだ。預言者エリヤは彼女と対決した。列王記上にはバアルとヤハウエの対決が描かれている。それと同時に21章にはアハブ王を唆し、土地を得るためにナボトを殺害する。そのことを踏まえておきたい。すなわち、偶像礼拝は特にバアル(豊穣神)は生産性と無関係ではない。しかも歴代の王の中で「主の目に悪とされることをことごとく行った。」王の代表がアハブである。すなわち、偶像崇拝は社会的正義をないがしろにし、その結果、弱者を抑圧する神でもあるということだ。この悪名高きイザベルを彷彿させる女性がこの教会にはいた。そしてそのような女性がいるにも関わらず、ティアティラの教会はそれを容認していることが叱責されている。また淫行(性的乱れ)が闊歩し、偶像に備えられた肉を食べるように唆しているのがイザベルである。ヨハネはイザベルに信奉している者たちに「悔い改め」を促している。それをしないときの報いが語られる。

 このことを踏まえてイエスが譬えとして語られた「毒麦のたとえ」(マタイ福音書13章24~30節)を読み直した。

 毒麦と良い麦は刈り入れまで見分けがつかない。ヨハネは終末を語る。そしてその文脈でサタンについて語っている。果たしてこの譬えはすでに実現したのであろうか。それをわたしは未来形として読みたい。
最後に「明けの明星について」諸説あるが、次のような説明がある。①勝利者は星のように天において輝いている。すなわちダニエル書12章3節に基づいて復活した者は、常に天にあって不滅であることを現している。 ②古代人は宵の明星は沈んで行くので死を現し、明けの明星は登るので不滅な生命を象徴すると考え、明けの明星の星であるイエス・キリストは勝利者に、永遠の命である明けの明星を授けるとしている。③しかし、以上の説よりも、文脈上、明けの明星の星は、支配や君臨の象徴であるので、殉教者に、この星が与えられるのは、終末に世界に君臨し、キリストと共に、この世を裁く者となることを意味するとみる方が妥当と思われる。とあった。良い麦となるために、わたしたちはみ言葉に促された生活を送りたい。主の来臨を信じ、言葉に生きるものとして。