【祝福の言葉】
ヨハネ黙示録3章7~13節

 フィラデルフィアは、サルディスの南東およそ45㎞に位置した町。紀元17年の大地震によって壊滅したが、ティベリウス帝によって再建、ネオ・カイサリアとの別名を得た。名前は創設者アッタルス・フィラデルフスに因んだもので(前150年頃)農業とともに産業も発達し、織物や革製品を産した。5世紀に繁栄をきわめ、祭りや異教儀式など盛んな所で小アテネとも呼ばれた。この箇所を読みながら、イエスの言葉を思い起こした。マタイ福音書7章7~8節、そしてこの扉の鍵を持っておられるのはイエスである。

 「ダビデの鍵」とはイザヤ書(ヨハネは70人訳で引用している)22章22節からの引用で、ここに登場するエルヤキムは宮廷長ヒルキヤの子で、ユダ王ヒゼキヤの宮廷長(列王記下18章18節)を務めた。彼はアッシリアによるエルサレム包囲の際の交渉人でありアッシリア王センナケリブが攻めたとき、敵の全権ラブ・シャケのもとに遣わされた。(列王記下18章26節以下、イザヤ36章3節~37章2節)。後にエルヤキムが預言者イザヤのもとに赴くと、イザヤはアッシリアにひとつの大いなる恐怖が起こることを預言する。アハズ王の子ヒゼキヤは即位後、宗教改革を断行し、神の前に忠実な王として歩む。すなわち、彼は高台を除き、石柱を破壊し、アシェラ像を切り倒す。そして父アハズ以来続いていたアッシリアへの貢ぎ物を中止する。しかしシリヤ沿岸の小国を糾合し、反アッシリア同盟を結び、エジプトの援助を期待するが、失敗に終わる。(列王記下18章14節)

 ヨハネが回覧してきた五つの教会も様々な欠点が指摘されていた。そのようななかにあってこの教会は苦難を生き、迫害のなかにあっても主の教会として歩んでいる教会である。「あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを堅く守りなさい。」(黙示録3章10~11節)そのような教会は祝福される。

 フィラデルフィアの教会は、「神殿の柱にしよう。」(3章12節)「新しいエルサレムの名、そして、わたしの名を記そう。と約束される。この教会は内部の敵からではなく、外部の敵に晒されるが、サタンにくみしない教会である。

 その結果、①終末時に救いから外れることはない、神の救いの領域に、その構造物の一部(柱)としてしっかりと組み込まれているとの約束。②勝利者には神・エルサレム・イエスの三つの名、すなわちこの三者に所属することの約束、新しいエルサレムの先取りされた教会であるのが、フィラデルフィアの教会である。扉の鍵の持ち主は「主」であり、その方との繋がりの中でわたしたちは祝福される。

 教会は弱さと欠点を抱えている。今、わたしたちは迫害・弾圧下の中にはいない。今後もそのようなことがないことを祈らずにはおられない。しかし、神の正義に生き、主の御心を生きると言うことはそのような覚悟が必要であることを忘れてはならない。すなわち、痛みを負う人たちとの「連帯」を生きようとすれば、教会は社会と対峙することになる。生産性が重んじられ、価値観の多様性が軽んじられる社会の中で、生きようとすればそれは当然である。祝福される生き方とは、この世にくみすることなく、福音に生きることだ。