【神が悲しまれること】
 イザヤ書2・1~5・マタイ5・9
      平和聖日合同礼拝

 「戦争は人間の仕業です。」人類が誕生して以来、人が人を殺すという行為がやんだことはありません。聖書では「カインとアベル」(創世記4章)の物語が最初の兄弟殺しとして記されています。その後も神さまがいちばん悲しまれる、人が人を殺すと言うことが未だに続いています。平和は力(軍事力)では獲得できません。力による平和は、支配の構図そのものです。

 北イスラエル王国、南ユダ王国の人たちは、大国の覇権争いの中で、いつも脅えた生活をしていました。北イスラエル王国が滅びた後、南ユダ王国もバビロンとの戦いに破れ、国の指導者たちは捕囚(紀元前587~539年)され、残された民衆は荒れ果てた地に置き去りにされ、平和とはほど遠い厳しい生活を送っていたのです。そのような時代に預言者は神さまの言葉を語り告げました、その時代神さまのご用をした預言者が、イザヤとミカです。二人の預言者が同じメッセージを語っています。「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」(イザヤ書2・4、ミカ書4・3)権力におもねる預言者は真の預言者ではありません。今でいえば世界情勢、社会情勢(状況)を分析し、神に祈り、人々にいのちを賭して神の言葉を語る人が預言者です。

 ドイツの教会は、ヒットラーに対してもナチスに対しても疑問を抱くことなく、忠誠を誓っていました。そのような中にあって、聖書にひたすら聴いた人たちが「告白教会」に属する人たちでした。その人たちは公然とナチスを批判しました。その結果、教師(大学・教会)としての職を失い、資格をも喪失しました。けれどもそのような中にあっても、聖書に生きる者として、ヒットラーに抵抗し続けます。その人の中にM・ニーメラー牧師がいました。彼の次の言葉は有名です。「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから。 社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから。 彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから。 そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。」

 日本基督教団は、1967年、いわゆる「戦責告白」を教団議長鈴木正久の名で公にします。その「戦責告白」には見張り番(エゼキエル書33章)としての務めを果たさないばかりか、戦争に荷担し、アジアのキリスト者たちに対しては「大東亜共栄圏にある基督教徒におくる書簡」によって、国家神道は宗教に非ず、とし、神社参拝を強要し、「天皇制」(国家神道)を押しつけました。十戒の一戒には、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」と記されています。キリスト者は、イエス・キリストのみを「主」と告白する群れに他なりません。今、福音派(保守的)の人たちは、信仰者の立場から、「天皇制」に対し、問うています。(『キリスト者への問い』 あなたは天皇をだれと言うのか、『神への従順とキリスト者の抵抗権』)聖書は「偶像崇拝」を厳しく戒め、それは神に対する背信行為に他ならないといいます。かつて教会は神の前に罪を犯しました。そしてそれは神の正義を踏みにじることです。そのことを神さまは悲しまれます。神さまの御心に歩むためにわたしたちは今、何をしなくてはなりませんか?みんなで共に聖書を読み、聖書に聴き、お祈りをして神さまの御心を行う者、平和を実現する者として歩んでいきましょう。