【恵みの言葉】
ヨハネ黙示録2章8~11節

 先週はM・Hさんが召天した。その日はおりしも8・15日であった。敗戦から73年目を迎えた日、M・Hさんは「走るべき行程を走り尽くして」神さまの御元に旅立たれた。もしもM・H、S・H夫妻が存命であれば、千鳥ヶ淵の戦没者墓苑の平和祈祷会に出席し、その後、九段教会で行われた「平和遺族会」の集会、水道橋の韓国YMCAで毎年行われている集会に出席したであろう。

 そこでは「天皇制」をどのように受け止め、歩むことが神の正義と公平に生きるのか示唆が与えられた。

 ヨハネ黙示録が書かれた時代はまさに今の時代を彷彿とさせる。アジアにある七つの教会の第二番目がスミルナにある教会である。エフェソから小さな半島をはさんで北側の町70キロ強にある。エフェソ同様都市としての機能を果たしていた。商業、貿易で繁栄した。この教会の最初の信徒はユダヤ人改宗者で、町の繁栄に比して貧しい生活を強いられていた。なぜかその理由は定かではないが、このように想像することは出来ないか、そこの教会員は、「皇帝崇拝」を拒否した。その報いは決して小さくはなかった。地域において、経済的に封鎖され、激しいバッシングを受けることになったからだ。

 福音派、「純福音」と呼ばれている教派は本来は魂の救いを第一にする教派である。しかし、昨今の状況の中で、信仰者の立場で積極的な発言をしている。その教派に属する山口陽一さんは「抵抗権」ということを説明するにあたって森派とよばれる信徒の群れについて語っている。

 ヨハネ黙示録のスミルナの教会の人たちも激しい迫害・弾圧の嵐の中で生きねばならなかった。自分たちを迫害する者たちは官憲の力を利用する。その人たちを神に敵対する存在すなわちサタンであるという。そしてある者は獄につながれた。

ヨハネ黙示録の「10日間」という数字は、ダニエル書1章12節が念頭にあったといわれている。そこには主の導きが示唆されている。10日間を長いとみるのか、短いと見るのか、事後預言であるとすればこの10日は過酷なことがあったと推察出来る。そのような中で、「死に至るまで忠実であれ」と語る。その者たちは7節にあるように祝福される。生命の冠、第二の死から害を受けることはない。

 今日私は「恵みの言葉」という題をつけた。わたしたちには祝福がすでに与えられている。そのことを信じ、今の時代の証言者として歩む者でありたい。

 最後に気鋭の神学者福島 楊さんの近著『カール・バルト―未来学としての神学』のキリスト新聞によせられた一文を紹介する。

 国家の力とも資本の力とも異なる第三の力とは何か?それは、もはやちからではないような力である。他者を自由に愛する力、解放する力、言い換えれば純粋贈与の力である。自由と愛に満ちた社会関係をあらゆる次元で創造しグローバルに展開することこそが、国家と資本への抵抗運動となる。キリスト者は、真に自由な愛に満ちた聖書の神を原動力とすることができる。国家と資本の暴力から人間と生態系を解放する、新しい「解放の神学」が必要である。(キリシン論壇2・0国家と資本への抵抗運動より)

 わたしたちは恵みへと招かれている。その恵みは「高価な恵み」である。しかしその備えられた道を歩むためにわたしたちは、「出る杭は打たれる」という処世術に生きることはできない。その意味ではキリスト者として生きることは容易ではない。だからこそ聖霊に導かれながら「主の来臨」を信じ、今を生きる者でありたい。