【あなたはなぜ離れてしまったのか】
ヨハネ黙示録1・9~20節
 
 わたしたちの世界では敵と味方という対立構造で物事が進められることが多くあるのではないか。教会もまた社会の縮図であるとすれば、自分とは違う人を意識はせずとも、無意識のうちに排除することがあるのではないか。

 ヨハネはここでアジアにある七つの一つ一つの教会にむけて書いている。一番バッターは、エフェソの教会の人々である。エフェソという場所は、パウロが第三回伝道旅行(使徒18、19章)で3年間滞在した場所である。彼はそこで女神アルテミスを信仰する人たちにイエス・キリストを証言した。その結果、教会が形成され、成長した。20章には彼の決別説教が記されている。エフェソは、ローマ帝国の属州アジアの首都で、帝国の地方長官は多くこの町に駐留した。地中海世界でも最も大きな都市の一つとなった。そのエフェソの教会の人たちに対して、ヨハネは「右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩む方が」という言い方でイエス・キリストがこう言われる。「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。」(2章2節)この教会には明らかに対立し、敵対関係のある人たちがいたことがわかる。その人たちは誰なのか。6節のニコライ派(ニコライを尊敬する人たち)の人たちだとする人もいるが定かではない。ニコライという名前は、使徒6章5節に出てくる。殉教者ステファノの仲間、すなわちヘレニスト、ギリシャ語を話すユダヤ人であり「アンティオキアの改宗者」、そしてその人を信奉する人たちがニコライ派の人々である。ヨハネは最初にエフェソの教会の人たちを褒めている。そして「しかし」と続き、悔い改めを促す。なぜならば、「初めの愛から離れてしまった。」からだ。ある訳では「最初の愛を放棄した」とある。この言葉は何を意味するのか、それはイエス・キリストの十字架の愛、すなわち他者と共に生きるという原理から離れてしまったということである。

 み言葉に立たず教会が自己を正当化し、絶対化したとき、教会はすでに教会としての体をなしてはいない。教会は他者のためにある。痛みを負い、苦しみの中にある人たちとイエスが歩まれたように、教会もそのようなあり方を志向されなければならない。排除という論理は組織を維持するためには必要であると考える人がいる。腐ったリンゴは別のリンゴを腐らせる。だから排除しなくてはならない。相手(組織)の欠点だけを見ているとそのような論理が正当化される。他者のためにある教会は誰をも排除しない。組織にとってマイナスであったとしても受容する。パウロは「敵の時にすら…」という言葉で神の愛を語る(ローマ5章6節以下)。そのように考えると、本来はニコライ派も排除してはならないことになるはずだ。

 わたしたちは終末にむかって今を生きている。すなわち終わり、目的の完成に向かって「中間時」を生きている。来臨を信じ、「急ぎつつ、待ちつつ」生きているからこそ、初めの愛に立ち返らねばならない。そのような原点を忘れないのであれば、わたしたちの教会は祝福され、わたしたちも祝福される。共にこころをあわせて祈り合おう。