【祝福された者】
ヨハネ黙示録1章4~8節

 「オウム真理教」の死刑に対して、EU諸国は「いかなる状況でも死刑執行は非人道的、残酷で犯罪の抑止効果はない。」また国際人権団体アムネスティ・インターナショナル日本支部は「一日に7人の大量処刑は近年類を見ない。罪を償うのは当然だが、真相究明の機会を奪う死刑は、正義とはほど遠い。」という声明を出した。しかし日本では国民の80.3%が死刑を容認しているとマスコミは伝えるが、日弁連は20年までに死刑廃止を提言している。

 「オウム真理教」は「ハルマゲドン」(世界最終戦争)を強調した。そしてこの世の終末を神経ガス兵器で実践した。先週、「黙示録は世界の終末、破滅を宣言する恐怖の書ではない。この書は現代の問題の最先端のさらにその先を見通して、わたしたちに広い視野と展望を与え、人類の歴史の完成について、その道筋を示す書である」という福音派の研究者のことばを紹介した。ヨハネ黙示録は、世界の終末、破滅を宣言する恐怖の書ではない。予言という言葉には、あらかじめという意味がある。しかし聖書は預言を神からの啓示を受けた者(カリスマ)の言葉として語る。現代の言葉で置き換えるならば、社会、状況分析をして、神の言葉を人々に伝えるのが、預言者である。新約聖書の中で、ヨハネ黙示録だけが、「預言」に分類されるが、その意味はあらかじめという意味での予言ではなく、神の言葉をあずかり、語る役割を担うものである。

 七つの教会の回覧を目的として彼はこの手紙を書いた。朗読者が朗読し、それに対して集まった者たちが応答する。七つの教会とは、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキア。そしてヒエラポリス、マグネシアにある教会である。(11節)ここには「来臨」の主が力強く語られている。この表現は、黙示録だけに見られる。「今おられ、かつておられ、やがて来られる方、」という表現はギリシャ語の文法では認められない破格の形であるそうだ。なぜ、そのような表現がなされるのか、その理由をある聖書学者は「神が現在、過去、未来という時間を超えて、ご厚意をもってともにいてくださる方だけではなく、永遠に変わることのない誠実なお方である」ということを語るメッセージとしてこのような表現をした。と解説していた。

 その方は、地上の王たちの支配者であると語り、そして祈りの言葉が語られている。「イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。」「玉座」は神の玉座で、「七つの霊」は、神の七つのたまものをもたらす聖霊である。 このお方は、「地上の王たちの支配者」である。このように告白することが、いかにこの時代に生きる者には、厳しいことであるのか、想像してほしい。さらにその方はわたしたちを罪から解放してくださる。このように語り、ダニエル書7・13とゼカリヤ12・10~12の「人の子」こそが、イエスであると告白している。わたしたちの主は歴史を支配し、その歴史を完成されるお方である。この言葉は「信仰告白」に他ならない。「祝福された者」たちは、迫害・弾圧の中でイエス・キリストに繋がる証人であり、「殉教」をもいとわない群れであった。

 今日の時代、ヨハネ黙示録のような迫害・弾圧はないかもしれない。(ないことを願う)けれども、それぞれがその場所でイエス・キリストを証しするということは容易ではない。恵みが先行するから、わたしたちはイエス・キリストは「わたしたちの主」と告白することが出来る。そのことを心にとめ、一人一人が神さまにつながり、備えられた道を歩みたい。