【聖徒たちと共に】
 永眠者記念礼拝 
創世記9章8-17・ローマ信徒への手紙5・12~21         

 この教会から、天に召された人は43名です。幼くして召された人もいれば、天寿を全うして天に召された人もいます。日本における「死生学」のパイオニア的存在であるアルフォンス・デーケンさんが、近著でなぜ、「死生学」を学ぶことになったのかが記されています。それはご自分の苛烈な体験があったからでした。彼の父親はヒットラーの「安楽死法」に抵抗したカトリックの司教フォーンガ-レンに共鳴し、彼の説教原稿を大量にコピーして、多くの人の目に触れさせて計画を中止させるためにいのちを賭した人です。

 ある時、子どもたちを集めて、「わたしたちがやっていることは危険なことだ。しかし、国家が弱い人や無力な人を選んで殺すなど、絶対にあってはならない。絶対に認めてはいけない。人間には、生死を賭けてもやらねばならない大切なことがあるのだよ」といった父のことばを生涯忘れることはない。と述懐しています。ヒットラーが倒れた後、連合軍によって目の前で祖父が銃殺された目撃者です。このような経験が彼をかたちづくりました。「死は終わりではない」と彼は一貫して語ります。この教会にとって「お母さん」的な存在であったHSさんが一月に天に召されました。本日その「追悼集」が発行されました。

 その中にわたしが尊敬している引退牧師のSHさんは、心臓手術を受けられる前に連れ合いにいわれた言葉をお連れ合いがこのように記していました。「ターミナル・ケアのターミナルは、終点と同時に出発点をも意味するので、どのような事態になっても、主にあって新しく生きたい。」デーケンさんは哲学の「蓋然性」という概念で、永遠の生命はわたしたちが生まれたときから存在し、死を通して新たに出発する。すなわち、「死は終わりではない」と語ります。わたしたちは、死に向かって生きていますが、死は非日常の「出来事」です。自分が難病や不治の病、愛する者を失うことがなければ、この問題はわたしたちの視野の外にあります。この礼拝を通してそのことを考えています。この地上で走るべき行程を走り尽くして、今は天上にある兄弟、姉妹の方々を偲び、天上の教会と地上の教会が礼拝を献げています。

 創世記9章8~17節、ローマ信徒への手紙5章12~21節を読みました。バビロニア神話の影響を受けた捕囚から帰還した祭司たちは、楽園後の世界について語ります。この地上を滅ばされようとした神はノアとその家族、そして地上に住むすべての雄雌一対ずつを選び、ノアを通して「箱舟」に入るようにと招かれます。「洪水」後、「箱舟」に入らなかったすべての動物は滅びます。「箱舟」から出たノアに神が契約をたてられたと今日読んで戴いた箇所には記されていました。最後に雲の中から虹(平和)があらわれて、契約は締結されます。けれども、その後、ノアはぶどう酒を飲んで醜態をさらしたと書かれています。神が人間に与えられた「契約」は一般の双務契約とは異なり、片務契約です。すなわち神の一方的な恵みによって、この契約は締結されます。

 パウロはそのような恵みにわたしたちは招かれていることを語ります。ローマ信徒への手紙5章21節に「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」神との一方的な契約、すなわち恵みによって死は終わりではない。と語るのです。

 今日わたしは、聖徒たちと共にという宣教題をつけました。聖徒とはキリストに繋がる人々を指しています。けれども、わたしたちにその資格があるから、「聖徒」となるのではありません。神の恵みが、天に召されたすべての人たちに注がれた結果、わたしたちもまた死を通して、聖徒へと招き入れられるのです。