【贖いの恵み】
詩編65編

 わたしたちは「罪赦された罪人である」と、宗教改革者たちはいいました。罪は神との関係が断絶し、遮断されている状態です。お祈りをするためには先ず、この関係を回復しなくてはなりません。沈黙して神さまに賛美を献げる場所はシオンです。そこには神殿がありました。神殿は神さまがおられる場所で聖なる所とされていました。人々は神殿に赴き、感謝と献げ物をしました。そして罪を犯した時には、贖いの献げ物が献げられました.

 レビ記には事細かにどのようにしなくてはならないかが、記されています。レビ記16章には「贖罪日」のことが書かれています。「まず、贖罪の献げ物として若い雄牛一頭、焼き尽す献げ物として、雄羊一匹を用意する。」(16・3)その際に身につける祭服について記されています。神さまだけが罪を贖って下さるお方です。そしてそのお方はすべての被造物を創造し、混沌とした世界に光あれと言われました。そしてそのお方は大地を潤してくださるお方です。

 イエス様はわたしたちのすべてをご存じです。青年時代に聞いたこんな例話が思い出されました。スイカを盗むために他人の畑に入ったお父さんが子どもにいいます。「もしも、誰かが見ていたら、すぐに知らせなさい。」すると教会学校(<ののはな>)に通っていた息子はいいました「大変だ!」この声に反応した父親は一目散にスイカを盗まずに逃げ出します。一息ついたところで、父親は息子にいいました。「誰が見ていたの…」すると息子は、「それは天のお父様、神さまだよ。」父親はそれを聞いてから、すべての盗みをやめて真面目に働くようになった。「誰が見ていなくても神さまが見ておられる。」このことを知った時、わたしたちは神さまとつながることが出来、心からお祈りを献げることが出来るものへと変えられます。神さまはわたしたちの罪を赦して下さいます。詩編の作者は「贖い」がどのようになされるかを知っています。

 イエス様はわたしたちの罪を贖って下さいます。イエス様が来られるまでは人は罪を犯した時、贖いの供え物をしなくてはなりませんでした。けれども、わたしたちはイエス様の「十字架」の贖いによって、どんなに罪を犯しても赦される恵みの中にいます。そして「贖いの恵み」の中にいます。

 この詩編は賛美のうたとして知られています。賛美は自分が順風満帆な時だけにするものではありません。試練にあう時、どうすることも出来ない状態におかれて八方ふさがりの時にも神さまを賛美することが出来たならば、すばらしいですね。そのようなものは「贖いの恵み」を知っています。その恵みを感謝するならば、わたしたちの祈りは神さまに聞き届けられます。でも、それはわたしたちが望んだように実現するとは限りません。お祈りは神さまとの「対話」であるという人がいました。そのためには、満願の献げ物をし、神さまが示される正義の道を歩むことが望まれています。

 キリスト教だけではなく、あらゆる宗教は救いを語り、祈りについて語ります。わたしたちは今、祈りを献げるためにここに集められました。神さまのみこころを知るために集められました。そのことを心から信じ、どんな時でも、神さまに繋がり、み心であればその祈りは聞かれる、そしてその恵みにあずかるためには、「贖いの恵み」にあることを感謝しなくてはなりません。わたしたちは「罪赦された罪人」といった宗教改革者の言葉を心に留め、それぞれが与えられた日々を感謝して歩む人になりましょう。