【ねじ曲げられた正義】 part2
ルカによる福音書23章13~25節


 国内外に共通しているのが漠然とした不安ではないのか、哲学者仲正昌幸はそのことを近著『悪と全体主義』で問うている。また聖書学者J・Hライトは自著『悪と神の正義』で「9・11同時多発テロ」によって悪の枢軸国と名指しされた国は、報復攻撃を受けることになったが、あたかも為政者たちは、「悪」が突然現れて、対処を必要とする新しいことであるかのように語るが、「悪」はこの地上から一度たりとも消え去ったことはない。キリストの福音は破壊的な信念や行為に向かわせる闇の諸力に対して、イエスは勝利(復活)したと語っている。アイヒマンはナチスのすぐれた行政官として、600万人を強制収容所に送り、殺戮を繰り返したが、彼は極めて普通の人のようであった。とアーレントは書いている。人間は「悪」に囚われると、狂気を発する。戦争で死線をさまよえば悪に引きずり込まれる可能性は否めない。悪の存在は絵空事ではない。

 ヘロデアンティパスは沈黙しつづけるイエスを再びピラトの元へ送り返す。そのことによってイエスは再度裁判を受けることになる。23・2「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分は王であり、メシアだと言っている」という告訴理由、事由は、でっち上げ以外のなにものでもない。ピラトはローマ法で裁く罪状を見つけることは出来ないと、14節ではっきりと語る。思案のあげく、ピラトは提案する「鞭で叩いて懲らしめよう」(16節)身体的にはリスクを伴うが、それで訴えを回避しようとする。しかし ピラトの提案はあっさりと退けられる。それで今度はイエスを恩赦で釈放しようとする。(ヨハネ18・39)しかし、そこにいた民衆は都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを釈放しろと、ヒステリックに叫ぶ。一説によれば、バラバはバラバ・イエスとよばれていたテロリストであり、熱心党に属していたといわれている。

 ローマの圧政に苦しむ人たちは、漠然とした不安を抱いていた。彼らは子ロバに乗ってエルサレムに入城するイエスに救いを求める。民衆は漠然とした不安の中で「メシア」を切望した。彼らのメシア像はパワーすなわち「力」である。正義のためには暴力もゆるされる。という論理がそこにはある。イエスはヘロデの前では黙秘を貫き通される。それはイザヤ書53章の「苦難の僕」と重なる。悪が支配するとき、暴力は容認され、正義のためには暴力はゆるされる。「悪の枢軸」といわれた国は国連で制裁を受けることが当たり前とされる。わたしたちはこのような状況だからこそ、福音に生き、聖書の言葉に生かされたい。教会も「正戦論」の考え方で、過ちを犯し続けてきた。多くのキリスト者が国家権力の前では何もすることが出来なかった。おかしいと思っていても「声」をあげることは出来ない。 ピラトもヘロデアンティパスも「事由」「告訴理由」が見当たらないのに有罪判決を下した。聖書はイエスの「受難」は必然であると語っている。ねじ曲げられた正義と闘うことが無ければ、この世界は変わることはない。非暴力で抵抗することはたやすいことではない。先週紹介した『マーチ』では「人種隔離政策」が公然と行われる中で、彼らは「非暴力」で闘った。「辺野古」で基地建設反対、「高江」でヘリパット反対と座り込む人たちに暴力でその人たちを排除しているのは国家権力すなわち警察である。権力には暴力が正義のためという大義名分でゆるされている。これが社会の現実の姿である。だからこそ、M・キングに学ばねばならない。