【キリストとは誰か】
四旬節第3主日礼拝(2018.3.4)
 イザヤ書43・1~8、マルコ8・27~30

 ペルシャ王キュロスは、補囚の民を解放し、彼・彼女らをエルサレムに帰還させた王です。第二イザヤ(40~55章)はキュロスを「わたしの牧者」(44・28)「主が油注がれた人」(45・1)と呼んでいます。イザヤは帰還する民に対して、前半(43・1~8)で叱責と警告を語り、後半(43・9~22)で祝福、解放を語ります。「キリスト」は誰か、苦難の中にいた民は「勅令」を発布したキュロスをメシアと考えます。けれどもその考えは期待外れに終わります。

 福音書を読むと、荒野の誘惑後、イエスはガリラヤで「神の国」運動を開始します。ガリラヤという地域は「辺境」で、様々な問題を抱えた人のるつぼでした。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」「わたしが来たのは罪人を招くためである。」(マタイ9・13)とイエスは言われますが、これは文字通り受け止めることが出来ます。その中に12年間出血が止まらず、苦しんでいる女性がいます。「財産を費やして多くの医者にかかったが、治らなかった。」(5・25)とマルコは記しています。また5,000人(6・30~44)「供食」の記事が紀元70年に書かれたとすれば、その背景には戦争難民がいたと考えられます。貧困、病、抑圧、差別、偏見に苦しむ人たちは辺境地のガリラヤで生活をしていました。イエスは弟子たちとともにその人たちに言葉と実践を通して「神の国」の福音を語られたのです。そしてそのイエスが十字架の道を歩むためにガリラヤ湖から北40キロにある異邦人の地フィリポ・カイサリアに入る道すがらペトロたちに尋ねます。

「人々は、わたしを何者だといっているか」弟子たちは「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「預言者の一人」イエスは弟子たちにたずねます。「それではあなたたちはわたしを何者だと思うのか」ペトロは答えて、「あなたは『キリスト』です。」と告白します。イエスはペトロに対してだれにも話さぬように、弟子たちをいましめたと記されています。弟子たちは知っていたはずです。イエスがどのようなお方であるのかを、力あるわざで人々を助けるというよりも、その人たちの苦しみ、悲しみを受け止め、その人たちの傍らに立ち同じ立場で考え、具体的に問題を解決される方であることを、しかし弟子たちの「メシア像」は当時の人々が考えていた「メシア像」とは変わりありませんでした。ローマの圧政から、宗教的支配者たちの偏見に満ちた目、その差別と抑圧から解放されるお方を待ち望み、そしてその「像」が洗礼者ヨハネであり、エリヤであったという中で、ペトロは「キリスト」と告白しますが、その告白は当時の民衆が抱いていた「メシア像」とは違っていませんでした。今日わたしたちはイザヤ書とマルコ福音書を読みました。み言葉を聞きました。イエスこそ「メシア」(キリスト)ということをわたしたちは信じています。ペトロはゲッセマネの祈りの時にも、イエスが逮捕されたときにもイエスのそばにはいませんでした。

 四旬節のこのとき、わたしたち一人一人が問われています。「あなたはわたしを誰というのか」この答えに対してわたしたちはなんと答えるのでしょうか、イエスを「主」と告白するものとして、そのことを心に留め、聖書を通して、イエスが歩んだ十字架の道を共に旅することが出来ればと願っています。(3/4)