【ここにいるのは、すばらしいことです】
四旬節第4主日礼拝(2018.3.11) 
出エジプト記24・12~18、マルコ9・2~10

 イエスの姿が弟子たちの目の前で変わりました。そのことを山上の変貌(変身)といいます。そこに登場するのが、モーセとエリヤです。神(ヤハウェ)はモーセに召命(使命)を与えられます。出エジプト3章にはその時の様子が描かれています。彼は神に出会い、その声を聞き、そして神がどのようなお方であられるのか、何が使命なのか、その後、彼に「シナイ山」で「十戒」が与えられます。そのことが出エジプト記20章に書かれています。もう一人はエリアです。「偶像崇拝」を徹底的に批判し、豊穣神バアルと闘った預言者です。この二人は神とはどのようなお方なのかを知らされ、啓示を受けた人物です。二人とも死を経験せずに天にあげられたと信じられていました。

 イエスは十字架の道を歩むために異邦人が居住する地フィリポ・カイサリアに入られます。ガリラヤ湖の南西約16km、標高588mのタボル山か、フィリポ・カイサリアの北東約19km、標高281メートルのヘルモン山のいずれかです。

 山は神が顕現する場所として考えられていました。その山でペトロ・ヤコブ・ヨハネだけが不思議な光景の目撃者となります。その時の様子がドラマチックに描かれています。

 「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほどに白くなっていた。」「エリアがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」そのことを目撃したペトロはパニック状態の中で「先生、わたしたちがここにいるのはすばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。」その時です。「これはわたしの愛する子。これに聞け」という声を彼らは聞きます。あのイエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたときと同じことが起きました。イエスを「主」とするということは日本の中ではたやすいことではありません。いやキリスト教国といわれている国々でも同じかもしれません。

 最初の東大の哲学教授は井上哲治郎です。彼は信念を持ちキリスト教を徹底的に弾圧し、排斥します。その中でいわゆる内村鑑三の「不敬事件」が起きました。ローマの時代、ローマ皇帝を神として認めなかったキリスト者は徹底的に迫害・弾圧されました。戦前ホーリネスの信仰に立つ人たちも純粋な故に捕らわれ、牢に入れられました。「大逆事件」「治安維持法」によって国家は自分たちの意に添わない人々を排斥しました。そして「非国民」というレッテルを貼り、共同体から閉め出しました。その中で神学を土台に据えていた教会は純粋な信仰のホーリネスの人々を仲間として支えることは出来ませんでした。そのため、獄中死を余儀なくされた教職者もいました。「国体」が叫ばれたとき教会は「時流に逆らう」ことは出来なかったのです。

 ペテロはイエスがモーセとエリアすなわち、律法と預言を実現するお方として冷静に判断して、その場にはいなかったのです。「すばらしいこと」という彼の言葉は「信仰告白」としては不十分です。山を降りた後すなわち、この世の中でわたしたちの信仰が問われています。わたしたちは過去の歴史から学ばねばなりません。そのことを心にとめ、この四旬節第4主日のこの日、イエスが示されている「十字架の道」を聖書から聞き、今を生きるものでありたいと願います。山は教会を表しています。そして山を降りるとは、わたしたちは礼拝からこの世へと派遣されると言うことでしよう。わたしたちの日常が問われています。