【わたしは知らない】
降誕節第6主日礼拝  ルカによる福音書22章54~62節


 創世記の「堕罪物語」以来、人間は神の前に罪ある存在として描かれます。「罪とは神との関係の破れ、疎外を意味する。」とある神学者は説明します。罪という言葉が的を外れるという言葉から派生しているからです。そして聖書で語られているイスラエルの民はモーセを通してエジプトから脱出した時に、神さまのみ手を信じたのに、苦難・試練が襲いかかると、その恵みを蔑ろにし続けます。そのような民を神さまは見捨てることなく、「バビロン捕囚」された時にも共におられ、やがて第二の出エジプトである解放をペルシャの王キュロスを通して成し遂げ、再び約束の地に戻ることが許され、主の神殿を再興することが出来ました。その後もイスラエルの民は神さまを裏切り続けます。そのような民を主はお見捨てにはならないというのが、聖書のメッセージです。

 先週のユダの裏切り(引き渡し)に引き続き、「知らない」といったペトロについて考えようとしています。ペトロがどのような人物であるのかといえば、彼は漁師で、イエスの言葉によって直ちに網を捨てて弟子(使徒)となります。またイエスの質問に対して「神からのメシア」(ルカ9・20)と答えた後、イエスの受難予告(9・21~27、43~45、18・31~34)を理解出来ない弟子たちが描かれます。マルコでは8・31以下で「弟子の無理解」が更にマルコの筆で印象づけられます。そしてイエスはペトロに「知らない」というであろうと、服従を誓うペトロに言います。(22・31~34)その事を心に留め、もう一度ルカによる福音書22・54~62のみ言葉をききましょう。

「知らない」と三度彼は言います。そしてその時、ヨハネ福音書ではアンナスの所からカイアファの所の屋敷に連れてこられた時にペトロはイエスに遭遇します。「主は振り向いてペトロを見つめられた。」(61節)そして「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう。」という言葉を思い起こして、外に出て激しく泣いたと記されています。イエスの視線は「裏切り者ペトロ」として彼を見つめてはいません。なぜならば22・32で「信仰がなくならないように祈った。」とイエスは言われているからです。

 ペトロに注がれた眼差しはゆるしの眼差しです。鶏は夜を意味しています。すなわち闇の支配です。けれどもペトロはイエスの眼差しと鶏の声で再び立ち上がる準備をします。「知らない」という言葉は関係を否定する言葉です。親しい関係にあった者が、自分とは関係ない。と言うことは人間関係にはありえます。利害関係が絡むとなおさらです。

 今年は2月14日からレント「四旬節」に入ります。イエスの「十字架」について観想・黙想(メディテーション)する時を過ごします。イスラエルの民がどんなに偶像にひれ伏し背信行為をしても神さまは最終的には捕囚の民を残され、帰還させられたのです。ペトロのゆるしはわたしたちへの招きの言葉です。

 親鸞は歎異抄で「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と言いました。競争社会の中で、努力が声高らかに叫ばれ、経済成長をすることが国益に通じる。グローバルな経済は世界を席巻する。という価値観の中にあって、底辺に沈み、繁栄の影の中にある(『維新の影』姜尚中)人にイエスは目を注がれました。

 イエスの眼差しは「知らない」と言ってしまったペトロに注がれたゆるしの眼差しです。