【悪の支配を突破する力】
四旬節第2主日礼拝(2018.2.25)
エレミヤ書2・1~13、マルコ3・20~27節

 ヤハウェに対抗する神としてバアルがいる。バアルは豊穣の神で、実に魅力的だ。ソロモン以後の王たちは多かれ少なかれ、バアルの神に影響されている。預言者はその神信仰を鋭く批判する。エレミヤもその一人だ。同じ預言者にホセアがいる。ホセアは苦難の「自分史」を語る中で、神の苦悩について語る。神はホセアに淫行の妻ゴメルを娶るようにと命じ、彼はゴメルと結婚する。しかしその結婚生活は惨憺たるもので、生まれてきた子は皆、ホセアとの間に生まれた子どもではない。この受け入れがたい事実を通して、ホセアは神の愛を知る。そしてこのゴメルこそが、背信のイスラエルの民の姿である。すなわち、イスラエルの民はヤハウェの神を裏切り続ける。エレミヤ書2章7~8節にはその事が具体的に書かれている。律法を教える教師が堕落した。神の恵みを蔑ろにし、豊穣の神に心を奪われてしまう。

 福音書の記者たちはイエスが病人を癒やしたと記している。すなわち、汚れた霊に取り憑かれた男の癒やし、多くの病人の癒やし、重い皮膚病の癒やし、中風の人の癒やし、手の萎えた人の癒やしである。

 そのような行為に対して、宗教的指導者からクレームがついたと今日の箇所には記されている。「あの男はベルゼブルに取り付かれている」それに対してイエスは譬えで反論している。イエスは「公生涯」に入る前、サタンの誘惑を退けられた。イエスが律法を蔑ろにしている。秩序を乱す者というレッテルが貼られた結果、「気が狂っている」と言うフェイクニュースで身内の者がイエスを家に帰そうと考えた。

 神に対抗する勢力はサタン(神に敵対する)である。サタンは神ではない。バアルに心奪われたイスラエルの民のようにわたしたちもしっかりと聖書に生き、神に繋がっていなければサタンの誘惑の罠に捉えられ、やがては虜となってしまう。

 今日(2/25)の午後社会委員会の主催で「大久保製壜闘争を通して教会が学んだこと」について考えるための集会が計画されている。彼らは叫んだ。「僕たちはロボットではない!人間だ!」この叫びに呼応して教会はその人たちの闘いの場を提供した。その結果、東支区の教会の牧師たちの中には異端視した者がいたと聞いている。

 以前、NHK「心の時代」で放映されたDVDを見た。作家の五木寛之さんに死ぬまでに会って、対談したいといわしめた本田哲郎さんの働きと聖書の読み方が紹介されていた。仕事にあぶれ、尊厳を奪われた人、カマガサキでしか生きていけない人と彼は徹底的に寄り添う。それが散髪だという。ボランティアで日雇い労働者の散髪をしながらその人を受け止める。そしてその「体験」が個人訳聖書として発信されている。権力におもねる時、わたしたちはサタンの誘惑に陥ってしまう。自分を中心に物差しをあてる時、サタンの餌食になる。サタンは神話の世界に存在しているのではなく、わたしたちの中に存在する。すなわち、人を白い目で見たりある種のレッテルを貼ることもサタンのなせる業なのかも知れない。だからこそ、わたしたちはイエスの十字架の道を辿らねばならない。受難・苦難について今の世界と切り離してはならない。悪の支配する力を突破するために、わたしたちは自己を見つめ、贖罪論の十字架理解にとどまらず、今もなお「十字架につけられたままのイエス」がいることを心にとめ、レントの時を過ごしたい。