【解放の日は間近】
エレミヤ書33章14~16節
ルカ福音書21章25~36節


 今日は教団では「社会福祉奨励日」としてこの礼拝が献げられています。そして「主のご降誕」を祝うための準備の時です。教会ではこの時、主が再び来られると「来臨」を信じ、終末に向かって生きることの意味を聖書から聴く時として定められています。

 わたしたちの教会は賀川ミッションを掲げている教会の一つです。そして社会福祉法人「雲柱社」との繋がりを大切にしている教会です。

 「雲柱社憲章」(2008年11月21日)には、「私たちは、キリストの贖罪愛に生かされて、隣人愛の実践に生涯を捧げた賀川豊彦の精神と働きを継承します。私たちは、神によって、一人ひとりに与えられた命と人格を畏怖し、その成長を支援するために力を尽くします。私たちは、地域の福祉と教育の課題に積極的に取り組み、人々の幸せを実現するために努力します。私たちは、世界平和を希求し、平和を実現するための取り組みを続けます。」と記されています。

 賀川豊彦はマルチな才能で多くの人々に感動を与え、キリスト教の伝道者として、様々な「小さくされた人々」とともに歩もうとした人です。けれども賀川とて人間です。弱さを抱え、偏見という壁を乗り越えることが出来ないという一面もありましたが、その生涯は戦争反対、非暴力を貫いた生涯でした。そのことが「雲柱社憲章」には見事に描かれています。

 わたしが、彼のことを考える時、彼の眼差しは常に2点を見つめていたと思うのです。すなわち、社会的弱者とレッテルを貼られた人たちに常に向けられていた視線、そして、どんな時でも「だいじょうぶだよ」といわれたイエスにそして神に向けられています。それは賀川だけではありません。聖書に登場する預言者と呼ばれる人たちも常に一方の視線は社会的弱者にもう一方は神に向けられ、神の正義と公平を貫く生涯を送った人たちが預言者です。

 エレミヤ(前627~前587)もそのような預言者の一人です。先ほど共に聴いた聖書の言葉の前に「そして、ユダとイスラエルの繁栄を回復し、彼らを初めの時のように建て直す。」(7節)に記されています。その前の31章には対比がなされ、神は「抜き壊す、植え、建てる」(28節)と書かれています。

 エレミヤは愛国の預言者です。けれどもその愛国は、虐げられ、苦しむ人がおり、戦争の惨禍で生きる希望すら見出すことが出来ない人たちに対して何もしない為政者、宗教者たちに対する厳しい糾弾です。そして審判を語る。彼はエジプトへ連れさられるまで預言者として権力に阿ることなく、徹底的に神の言葉に生きた人でした。

 わたしたちは、死に向かって生きています。実感はなくとも、それは紛れもない事実です。聖書は私たちの生き方を問います。先ほど読んだルカ福音書には、天変地異が語られています。すなわち、終末が語られています。しかしその時は恐ろしいときではありません。いちにち一日を誠実に一生懸命生き、他者への寄り添いを忘れずに生きれば「その日」は解放の時であり、恵みの時です。