【屠られた小羊】
ヨハネ黙示録5章6~14節

 「巻物」を開くことが出来るのは、「屠られた小羊」だけであるという。そして四匹の生き物と24人の長老が小羊の前にひれ伏し、それぞれが神を賛美し、新しい歌を歌ったと記されている。

 新しい歌を歌うとは神を讃美することである。ヨハネは詩編33章3節を引用する。小羊だけが、七つの巻物の封印を解くことができる。そしてその方は「屠られた小羊」であるという。わたしたちはこの小羊という言葉に大きなメッセージが秘められていることを知る。出エジプト記11、12章には、「過越の祭」について言及され、その21節には、「さあ、家族ごとに…」過越のために鴨居に血を塗った家は守られるとしるされている。

 競争社会の中では勝ち組と負け組が歴然と存在する。今、世界はこの図式で動いている。勝ち組は、勝利者である。そしてその勝利者は「力」を象徴する。アメリカでは大統領の信任投票の意味合いとしての「中間選挙」が行われようとしている。彼を支持する人たちは、忘れられた人びとといわれるラストベルトの白人の困窮者とそして利益至上主義の経済人で、マイノリティーを公然として排除することを憚らない人たちである。前オバマ大統領の政策の全否定者がトランプ大統領であることはマスコミ報道で明らかになっている。悲しいことにこの人たちは、いわゆる「福音派」といわれるキリスト教保守主義者である。彼ら/彼女たちの信条は、聖書の言葉を文字通りに信じることである。

 すなわち、科学よりも聖書が優位に立ち、「進化論」は認めない。進化論は仮説であるから、すべてがこの論で説明されることはないが、それは聖書が告げるメッセージには適っていないという判断は軽々である。北京原人を発掘した古生物学者で神学者でもあるT・Aシャルダンは進化論で神が造られたこの世界の神秘を説明した。すなわち、彼は司祭として、生物学、考古学、古生物学を修めたのである。このように自分たちの主張は絶対であるという危うさをわたしは、アメリカの福音派といわれる教会と個人に見る。

 小羊の血は、弱さ、そして平和を象徴する。フィリピ信徒への手紙のいわゆるキリスト賛歌(フィリピ2章6節以下)が信仰告白であるように、この10節、12節も「信仰告白」に他ならない。黙示録には、わたしたちが想像することもできないような記述がある。しかしこの中にある「信仰告白」の言葉をわたしたちは知らねばならない。

 「屠られた小羊」によって、わたしたちはあらゆる壁を乗り越えることができる。価値観の違い、民族の違い、風習の違いを含めて氏族、言語、民、民族の違いを乗り越えるのである。

 「廃藩置県」によってアイヌ民族も琉球民族も言語が奪われた。聖霊降臨の「出来事」は言語が一つにされたのではなく、言語の壁を乗り越えて、「信仰告白」がなされたのである。11節の見る、聞くということは視覚と聴覚で知ることを意味する。わたしたちは、12節にも記されている「屠られた小羊」によって、解放されたものであり、その小羊こそがイエスであると告白する。教会とは何か、それは「小羊の血」に贖われたと信じる「群れ」であると同時にイエスが歩まれた道を倣う者である。イエスを「主」と告白する群れは、誰をも排除しない。すべては神によってつくられたという信仰告白によって生きる「信仰共同体」に他ならない。