【巻物を開くお方】
聖霊降臨節第22主日礼拝 ヨハネ黙示録5章1~5節

 犬養光博さんの近著『筑豊に出会い、イエスと出会う』という本には伝道者とは何か。が見事に描かれていた。イエスは弟子のペトロたちに対して「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう。」(マルコ1章17節)といわれた。すると「二人はすぐに網を捨てて従った。」(マルコ1章18節)伝道者とは召命によってたてられたものである。そしてその召命に生きるとは、この世の価値観から本来は解放されることを意味する。しかし弟子たちがそうであったように、復活信仰・聖霊体験が根付かねばそのような「高価な恵み」の道を歩むことは難しい。

 ヨハネ黙示録の時代、キリスト者は迫害・弾圧下の中に晒された。その中でヨハネは、玉座に座っている方が、右手に巻物があるのを見る。その巻物はパピルスに書かれていた。しかし封印がしてあるので開けることが出来ない。

 エゼキエル書の巻物には「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」(2章9節)が書き記されていた。彼はその封印を解く人を探した。けれども見当たらない。そのため、ヨハネは激しく泣いた。封印を解く資格のある人は誰もいない。人間にはこの巻物を開く資格は与えられてはいない。その中で一人の長老が「泣くな」という。7章を読み進めるときそこには希望が語られている。その希望はうわべの希望ではない。現実を見据えた上での希望である。

 哲学者の高橋哲哉さんは著書『犠牲のシステム』で、沖縄は「安保の犠牲」・福島は「原発の犠牲」であることを明確にした。自分の地域には認知症、障がい者、保育園などの施設はお断りという。それでいて、施設が必要であることは十分承知している。「普天間基地」の危険を回避するためには「辺野古」の基地建設はやむを得ない。日本の経済発展を考える時、化石燃料やその他の燃料ではコストがかかりすぎる。環境にもよくない。という理由で「原発」が徐々に再稼働されようとしている。

 朝日新聞発行の『ジャーナリズム』で国語学者の金田一秀穂さんは、現総理の言葉の軽薄さを書いていた。一言で言えば自分の言葉ではなく、コピッペの言葉。すなわち、うわべだけの言葉で終始しているという批判である。その言葉には希望があるのだろうか。わたしたちはこのことを考える時、現実の厳しさに圧倒される。

 黙示録の時代、ローマ皇帝ドミティアヌ帝はキリスト者を迫害・弾圧した。巻物に書かれている内容がわからねば何も前へは進めない。そのような中で、彼は「泣くな」絶望するなという声を聞き、巻物を開くお方を知る。その方はユダ族の出身で、ダビデのひこばえである。(イザヤ書11章1節))そしてその方は、勝利者であるとヨハネは長老から告げられる。そのお方だけがこの巻物を開くことが出来る。ヨハネはこのお方を「小羊」とよんでいる。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ福音書1章29節)という。ヨハネは終末を語る。そこには終末の裁きが語られるが、しかし7章9節で希望が語られる。巻物を開かれる方は、わたしたちに希望を最終的には与えられる。そしてその希望は、現実から逃避することでは得られない希望である。わたしたちは知らねばならない。わたしたちは、この巻物を唯一開かれるお方を今、礼拝している。そのことを心に留め、巻物を唯一開かれる方にこの主日礼拝を献げよう。今の時代を生きるものとして。