【神の平和】
 平和聖日合同礼拝拝          ミカ書5章1~5節
 フィリピ信徒への手紙4章2~9節


 72年前の8月6日午前8時15分、エノラ・ゲイから「投下」された原子爆弾(ウラン235)によって、広島の街は一瞬のうちに焦土と化した。市民35万人のうち9万~ 16万6千人が被爆し、2ヶ月から4ヶ月以内に死亡したとされている。その後、長崎にも原爆(プルトニウム239)が降下され、長崎の街も焦土と化した。

 本土の捨て石として沖縄では壮絶な地上戦が行われ、米軍の空襲によって多くの「非戦闘員」の人たちが死傷した。多くのアジアの人たち、そして多くの兵士のいのちを奪った「狂気の戦争」は「ポツダム宣言」を受諾することで、幕を閉じた。

 日本基督教団は、1967年所謂「戦責告白」を教団議長鈴木正久の名で公にした。見張り番(エゼキエル書)としてのつとめを果たさないばかりか、戦争に加担した。そしてアジアのキリスト者たちに対して「大東亜共栄圏にある基督教徒に贈る書簡」によって、国家神道は宗教に非ずとし、神社参拝を強要し、天皇制を押しつけた。十戒の一戒には、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」と記されている。キリスト者は、イエス・キリストを「主」と告白する。「現人神」としての天皇を容認することは、偶像崇拝をすることであり、それは神に対する背信行為に他ならない。教会は神の前に罪を犯した。神の正義を踏みにじった。

 ミカ書が書かれた時代、不正義が国中にはびこり、偶像崇拝が公然と行われていた。そのことを預言者ミカは厳しく糾弾している。権力者に阿る(おもねる)預言者は真の預言者とは言えない。預言者は今でいえば世界情勢、社会情勢(状況)を分析し、神に祈り、人々に神の言葉をいのちを賭して語る。それが預言者の使命に他ならなかった。

 ドイツの教会の大半は、「ドイツキリスト者」として信仰生活を送り、ナチス・ヒットラーに対しても疑問を抱くことなく、忠誠を誓った。そのような中にあって、イエス・キリストを「主」とするということはどのようなことなのか、聖書にひたすら聴いた人たちがいた。そして「告白教会」をつくり、公然と自分の立場を明確にした。

 その結果、多くの人たちが教師(大学・教会)としての職を失い、資格をも喪失した。けれどもそのような中にあっても、聖書に生きる者として、ヒットラーに抵抗した。その結果、ボンヘッファーのように殉教した者たちもいる。同じグループに属していたM・ニーメラーは「彼らが共産主義を攻撃した時」というあの有名な言葉を残している。イエス・キリストを「主」と告白するとき、私たちは今の自分の生き方が問われる。信仰者として、私たちは平和を願う。それは「神の平和」に他ならない。パウロは獄中でキリストにつながる幸いと恵みを語る。

 キリスト教の歴史を紐解けば、絶対平和主義者の集まりではないことがわかる。正戦を主張し、戦争を容認した歴史を忘れてはならない。関東教区は「戦責告白」から「罪責告白」へという文言で教会の在り方を問うている。教会が罪を犯したならば、先ず神に懺悔しなくてはならない。しかしそれは「無責任な体系」を意味するものではない。責任を伴うのである。二度と戦争はしない。してはならない。このことをこの日覚え、聖霊の導きを信じ、預言者としての使命を果たし、キリストを告白する教会となるために、平和を願い、共に祈りを献げよう。