【惑わされるな】part2
ルカによる福音書21章7ー19節                 

 8/13日、日曜日に放映されたNHKスペシャルに対して、中国はこの番組を好意的に受け止め、歴史修正主義者に対してこのようにコメントした。「我々は歴史の真相を暴く日本の洞察力のある人々の勇気を賞賛する。日本側が国内外の正義の声に注意深く耳を傾け、日本軍国主義の侵略の歴史を正しく理解し、深く反省して、中国などアジア被害諸国の国民感情を真剣に尊重することを希望する」この番組を見終わり、野田正彰の『戦争と罪責』の一章に出て来る軍医中尉のインタビューを読み直した。そこには生々しい医学実習としての八路軍の兵士に行われた生体解剖について記されている。また一つの映画を見た。それは「夜明けの祈り」である。1945年 第二次世界大戦が終結した年のポーランドの田舎町にある修道院で起きた実話である。そこにはソ連軍の蛮行が描かれている。

 戦争は戦う者たちを狂気へと導く、そして非人間化させることがわかる。

 先週に引き続き、「小黙示録」と言われる箇所の7~19、特に12節以下を読み、分かち合いたい。16節には、「親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる」とその迫害・弾圧の厳しさが語られる。神に従う、キリストに従う、キリストを証しして生きるとは、キリストを信じ、宣べ伝えるがゆえに迫害・弾圧を恐れてはならない。そのような者を神はお見捨てにはならない。18節で弟子たちに対する約束としてイエスの言葉が記される。この箇所を読みながら、遠藤周作が『沈黙』で著したような弾圧は今はない。拷問を伴う弾圧は「治安維持法」による「大逆事件」や「大本教」に対する宗教弾圧である。その時代、「天皇制」を否定し、国体を蔑ろにする「共産主義者」は非国民とレッテルを貼られ、忌避され、嫌悪された。

 国家は「宗教団体法」によって宗教をコントロールした。そのような中で、「日本基督教団」が誕生する。土肥昭夫の『歴史の証言』にその経緯が記されている。教団設立時の教団統理富田 満と教学局長村田四郎のこのようなやりとりが記されていた。創造神の否定、キリストの復活の削除を求められたので、「そこまで仰せになるのでしたら、私共にも最後の覚悟がある。」けれどもその前にはこのような文言が記されている。「日本基督教団の本領は何処にあるのか。答)我々が教団の本領は皇国の道に則りて、基督教立教の本義に基づき国民を教化し以て皇軍を扶翼(ふよく)し奉るにある。」こうして日本基督教団は成立した。

 ここには殉教とは、創造主を否定し、復活を否定する時、殉教する覚悟が語られている。また無教会の塚本虎二は、日中戦争には反対の意志を表すが、真珠湾攻撃を支持し、その時からは日本の軍国主義に対して、ものを言わぬどころか、支持を明確にしている。また矢内原忠雄、南原 繁は、戦争に対して反対の意志を貫くが、「天皇制」に対しては支持をしている。

 国家、国体に対してもの申すことはしてはいない。そして信仰と「天皇制」をはっきりと区別する。すなわち二元論の立場で信仰を捉えていることがわかる。

 しかし預言者はそうではない。偶像崇拝と社会的不正義は一体なのである。すなわち信仰と社会という「二元論」ではない。神に従うとは、社会の不正義、そして戦争に対してもの申すことをやめることではない。

 わたしたちは、今を生きている。生かされている。そのような中にあって、信仰と社会正義を切り離すことは出来ない。

 教団は鈴木正久議長名で「戦争責任告白」を行った。その後、キリスト教の中の福音派(純福音)も他の宗教もその後を受けて、「過去」に目を背けることなく、「戦責告白」を行った。

 現代の殉教者とされるボンヘッファーやオスカル・ロメロは神の言葉と神の正義に生きた。

 わたしたちは「中間時」を生きている。だからこそ、歴史に向き合い、「負の歴史」
を受け止め「過去」を忘れてはならない。

 惑わされてはならない。主の言葉をわたしたちは信じ、今も生きねばならない。