【惑わされるな】part1
ルカによる福音書21章7~19節   

 米国大統領がトランプに変わったことで、いわゆる「終末時計」は30秒早まり、残り2分半となった。日本の為政者が「北朝鮮」脅威論を振りかざし、米国支持に終始する限り、東アジアの安定はありえない。

 宗教は「終末」を語る。「ノアの箱舟」では乗れなかった者の滅亡と乗りこんだ者への救済が語られる。

 神の民イスラエルの歴史(背信の歴史)をふりかえるとき、何度も何度も神(「ヤハウェ」)を裏切るイスラエルの姿があることに気づく。ホセア書にしるされている妻の不貞は、ホセアの苦難が神の苦悩と重ね合わせて語られている。そしてイエスを裏切る弟子たちも然りである。マタイ7章21~23節(山上の説教・垂訓)の終わりは「かしこい人と愚かな人の譬え」で締めくくられている。またあのマタイ25章の31節、特に41節には主の呪いを受けると語られている。世の終わりをことさらに脅迫するような宗教者はうさん臭い。けれどもまたそのことを何も語らない宗教者も同様にうさん臭い。

 今日の箇所もマルコ福音書を下敷きにしている。マルコとマタイではオリーブ山でイエスの弟子であるペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレに対してイエスが語られた言葉を受けて、弟子たちが質問したと書くが、ルカは、「彼らはイエスに尋ねた。」と記している。神殿が破壊される。これはイスラエルの民のアイデンティティの危機である。

 紀元70年、ローマ軍によって神殿は破壊された。終末が近づいている。その時、惑わす者が出現する。そして不安をことさらに煽り立てる。しかし、そのようなことに惑わされるな。現象としては「天変地異」(自然災害)が起き、飢餓や疫病が蔓延する。そのような現象に「一喜一憂」して惑わされるな、その前に迫害、弾圧が起きると語られている。終末の時、主の正義と公平を語る預言者は苦難を受ける。

 作家で2010年にノーベル平和賞を受賞した中国の民主活動家で、先般、亡くなられたリュウ・ギョウハ氏の「kirisIN」の記事が目にとまった。彼はキリスト者ではなかった。けれども大連の労働教養所(強制収容所)に収監されたとき、ある人を介して、古代教父、中世神学者、宗教改革者、現代神学者、そしてドストエフスキーなどの作品を読む。特にボンヘッファーの牢屋においても信仰ゆえに希望を持ち続けたことに励まされ、妻への手紙に「たとえ何かを変えることができなくとも、しかし少なくともわたしたちの行為は、イエスの精神が今でもこの人間の世界に息づいていることの証しになり、神なき現代社会においてイエスの精神のみが人間の堕落に対抗出来る信仰的力となることの証しとなる。…もし希望を理解出来なければ人間の存在を理解出来ない。生きる勇気は希望のみが与えることができ、希望は神と愛と十字架から来る」と彼の言葉が掲載されていた。

 キリスト者ではない彼が、ボンヘッファーの「成人した世界」を体現していたことは事実である。終末は必ず来る、歴史のはじまりには必ず、終わりがある。ユダヤ、キリスト教の歴史観は「直線的」であり、「円環的」ではない。「待ちつつ急ぎつつ」主の来臨を神話(絵空事)として受け止めず、終末に向かって生きていることを忘れることなく「中間時」を生きる者として歩みたい。終末は希望へと繋がる。その事をわたしたちに聖書は語る。