【主を讃美する者】
詩編33編

 申命記26章5節以下には、神さまがいかにイスラエルの民、出エジプトの民を慈しまれたかが記されている。その慈しみは神の一方的な憐れみに他ならない。同じ7章6~8節を読むことでそのことを確認することが出来る。出エジプトの「出来事」はヤハウェ(神)が共におられたがゆえに成し遂げることが適った。

 この33編は、神を讃美する者の詩である。神を讃美する者たちは全身で主を讃美する。1~3節で讃美への呼びかけ、4~19節で讃美の告白、この節は3つに分けると、①ヤハウェのみ言葉(4~9)②ヤハウェの計らい(10~11)③ヤハウェのまなざし(12~19)、20~22節はヤハウェへの信頼の祈り。すなわち招き→応答→祈願のリズムで構成されている。

 どんな時にも神を讃美するということは私たちには難しいと思われる。「順風満帆」な時「神さまありがとうございます。感謝します。」という祈りは自然と出る。そしてそのような讃美する者が、主を信頼していると私たちは考えている。

 この詩編は「主の慈しみ」がメッセージの中心にある。逆境の時に私たちは祈ることは難しい。「四面楚歌」の只中にあるとき、私たちは主の慈しみがわからない。しかし主は私たちを徹底的に慈しんで下さる。私たちの意志で主に従うのではない。主が私たちを守り導いて下さる。それゆえに私たちは主に従うことが恵みによって適えられる。歓呼の声を上げて、全身で心から主を讃美する者は、苦難の中で主に呼ばわることが出来る。私たちの主(ヤハウェ)はこの世界を混沌から創造された。主の言葉によってこの世界は生まれた。そして私たちは創られた。

 今日わたしは「主を讃美する者」という宣教題をつけた。私たちはこの言葉を聴いて、どのようなイメージで捉えているのだろうか。わたしたちが主日礼拝を守りあずかり、聖書に生きたとしても、試練、葛藤は容赦なく私たちを襲い苦しめる。けれどもその試練を共に担って下さるお方を私たちは知っている。主が共におられる。主が私たちの試練を苦しみを十字架によって担っていて下さる。だからこそ、主に従う者として、主を讃美することが出来るのである。

 星野富弘さんは大学を出て、意気揚々と体育の教師として歩んだ矢先に授業で「空中回転」に失敗した。その代償は脊髄損傷であった。二度と教壇に立つことも自分の足で歩くことも自分の手で食べることも出来なくなった。お先真っ暗という状態に陥った。その時、彼は信仰に導かれた。そして自分にある機能が残っていることに気がつく、それは口であった。口に筆をくわえ、絵を描き、言葉を添えた。その言葉は多くの人を慰め、希望をあたえ続けている。彼は、主の慈しみを知った。イエスの愛を知った。

 人生には希望が見出せないときがある。22節で作者は謳う。「主よ、あなたの慈しみが我らの上にあるように 主を待ち望む彼らの上に。」主を讃美する者は、主に信頼する者である。主はわたしたちがたとえ主に顔を背けても、主は私たちをお見捨てにはなられない。聖書の物語、メッセージは私たちにそのことを伝えている。主を讃美しよう。主の慈しみに感謝して。