【メシア】とは誰か
ルカによる福音書20章41ー45節
                        
 私たちはどのようなリーダーを期待しているのだろうか。強いリーダーシップ、清廉潔白、不言実行、弱者に対する思いやり、支配欲のない人・・人によってあるべき姿のリーダー像は違う。イエスの時代、ローマの植民地支配と神殿宗教に抑圧されていた民衆は「メシア」を切望していた。

 メシアとは「油注がれた者」という意味である。神から特別な任務を指名された者たちである。その職は①祭司(出エジプト28-41、29-7、30-30)②預言者(レツ王記上19-16)③王(サムエル記上9章、16章)。

 ダビデは「油を注がれて」王となる。ダビデ王の後継者はソロモンである。ソロモンは知恵に富み、神殿を建設した。しかしダビデ王の偉大さが語り継がれる。マタイ福音書1章には「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」として、イエスがダビデ王に属する者とされている。また「いと高き方の子といわれる。神である主は彼に父ダビデの王座を下さる(ルカ1章32節以下)」。イエスのみ前に現れた悪霊に取り憑かれて苦しむ娘の母親は「主よ、ダビデの子よ」とイエスを呼んでいる(マタイ15章22節)。

 福音書記者は、イエスをダビデの子として描いている。イエス・キリストとは固有名詞ではない。最も短い「信仰告白」である。すなわち、ナザレのイエス、福音書に記されているイエスの言葉と行動は、イエスこそがメシア、キリストです。と告白していることになる。イエスは「どうして人々はメシアがダビデの子だというのだ」といい、詩編110編1節を引用する。ここには祭司・預言者・王であるイエスがメシアであると描かれている。イエスは、ダビデを超える方であると語られている。

 冤罪で逮捕されたイエスは、最高法院(ルカ22章66節以下)で尋問される「お前がメシアなら、そうだというが良い」それに対してイエスは「人の子は全能の神の右に座ると」言われる。右という言葉は、日本語でも特別な意味で使われる。右腕というのもそのような例である。また「使徒信条」では「全能の神の右に座したまへり」と記されている。ルカはここでイエスは、ダビデよりも偉大なお方である。と「告白」している。

 イエスは「神の国」の宣教を語られた。そこに集う人々を無視しては成り立たない。今日わたしは、「メシアとは誰か」について考えた。「イエスこそメシアである。」と「告白」する共同体が教会である。誤解を恐れずに言えば「信仰告白」とは、私たちの生き方そのものだ。280番の讃美歌の詩にあるように、イエスは徹底的に差別され、抑圧された人々の傍らに立たれた。 最初に私たちが描くリーダー像について考えた。私たち自身、弱さを誇ることは難しい。しかし宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩に登場する「デクノボー」は、実在していた人物で内村鑑三から大きな影響を受けた斎藤宗次郎であるといわれている。

 私たちはイエスの中にある眼差しの中に、徹底的に抑圧する者たちと闘われ、その結果「十字架」にイエスは架けられる。強いリーダーシップを期待するのをやめよう。人の痛みを分かる人こそ、本当は強い。この真理を生きる時、私たちはイエスこそ、メシア・キリストであると告白することが出来る。現実の社会をしっかりと見据えて、主の示された道を歩もう。聖書によって生きる者として。