【この花のように】
こどもの日・花の日メッセージ  
申命記11章13~21節・エフェソ5章1~5節

 黎明保育園と堀切、宝両学童クラブは、7日水曜日「子どもの日・花の日」の礼拝を献げた。翌日園児たちは、ロイヤルケアセンターといやしの森を訪問した。

 キリスト教教育事典には、その礼拝の守り方の変遷が記されていた。戦前の教会(日曜)学校では、礼拝堂いっぱいに花を飾り、礼拝の中で歌や聖句暗唱、劇などを行った。教会学校活動の発表の場でもあった。そして子どもたちは日頃お世話になっている交番、消防署などに花を持って訪問し、感謝の意を表した。やがて「地域の福祉施設」への訪問となった。諸説あるが1856年アメリカ・マサチューセッツ州チェルシーにある第1ユニバーサルキリスト教会のC・Hレオナルド牧師が、教会生活における子どもたちの「祝福式」を行い、両親や教師に対してこどもの養育の責任を訴えたのが、始まりとされている。すべてのこどもは掛け替えのない神さまからの贈り物である。わたしたちはその事を心にとめ、黎明保育園の園児、堀切・宝学童クラブの子どもたち、<ののはな>に繋がる子どもたちを覚え、ひとりひとりの成長を願い、子どもたちが自分のことだけではなく、「他者」に目を向ける感性が養われるために、この時に祈りを合わせたい。

 今日は申命記11章13~21節、エフェソ信徒への手紙5章1~5節のみ言葉を読んだ。同じ申命記6章4節には「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたが心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」とある。そしてイスラエル共同体は日に二回この信仰告白を唱えた。この信仰告白は親から子へ受け継がれた。神さまはこの「信仰」に生きる者を祝福して下さる。今日でもユダヤ教では、聖書の言葉を暗唱箱と呼ばれる革製の小箱に入れて腕と額に結び付けて祈ることもある。またメズサーと呼ばれる小筒に聖書(ユダヤ教聖典)の言葉を書いた紙を入れ、家の門柱に取り付ける。

 パウロはコロサイの信徒への手紙を下敷きにエフェソ信徒への手紙を書いた。わたしたちがキリストに繋がる者として生きるためには、互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。それが神さまのこどもです。神さまのこどもは、神に倣うものとして歩むことが出来ると語っている。倣うお方は生け贄として、わたしたちのために犠牲となられた。とパウロは語る。

 今日私たちはこどもさんびか115番「この花のように」を讃美した。この花のように、みんなの心にやさしくかおる こどもにしてください。とある。

 愛するとは、相手を大切にすること、困っている人たちがいたならば、「シランプリ」をしないことである。わたしたちは神さまを第一とし、自分を愛するように、隣人を大切にすることは、実際は難しい。だからこそ、聖書を読み、祈りを共にし、日々祈るのである。「子どもの日・花の日」講壇には沢山の花が飾られている。花にはそれぞれの香りがある。保育園と学童クラブの子どもたちにどんな花を知ってる?と質問したら様々な花の名前がでた。

 沢山の花の名前を知っていた。お花をもらうとどんな気持ち?と質問したら、優しい気持ち、心が温まる、幸せになる、花の美しさを見るのではなくその花が醸し出す香りについて語ってくれた。わたしたちの教会に繋がっているすべての子どもたちのために祈りを献げよう。キリストの感性が与えられるように。