【身勝手な農夫の譬え】
ルカによる20章9~19節

 わたしはこの譬えを読んで考えた。もし、私たちの所にイエスが来られたならば、素直にイエスをわたしたちは受け入れるだろうか。それとも拒否するだろうか。まず、この譬え話を理解するための手がかりとしてイザヤ書5章1~7節を読みたい。良いぶどうを実らせるためには、肥沃な土地、そして石を取り除いてから、ぶどうを植える。そしてその真ん中に見張りの塔(農夫たちの小屋)を立て、酒ぶねを掘る。しかし、それだけ手塩にかけて育てたのに、実ったのは「酸っぱいぶどう酒」であった。そしてこのぶどう畑はイスラエルの民である。神に背くイスラエルの民、私たちはこの背信行為が「不正」とセットで語られていることを見逃してはならない。列王記上21章には「ナボトのぶどう畑」を奪取したサマリア王アハブの事が描かれている。ナボトのぶどう畑をどうしても手に入れたかったアハブは妻イゼベルに相談する。そして不正(国家暴力)な方法で手に入れる。エリアをはじめとする預言者たちは、偶像崇拝と神の正義と公平を踏みにじったことをセットで神の厳しい言葉を語っている。預言者たちはその権力者たちの横暴に対して、命を賭して闘った。その結果、ある人たちは殺され、また迫害され、不当な裁判で刑に処せられ、名誉を奪われる。それでもなお、預言者たちは神の言葉に生きる。

 私たちは今、この譬え話を読んでいる。そこには主人と農夫そして僕、息子が登場する。イエスはこの譬えを「民」に向かって語られたとルカは記す。マルコ、マタイはイエスに敵対するものに向けて語られたと記している。主人は長い旅に出る。そして収穫の時「僕」たちを遣わす。すると農夫たちは次々と僕たちに暴力を振るう。袋だたき(身ぐるみはいで)手ぶらで追い出す。次の僕も同様に扱う。しかも侮辱して追い出す。三人目の僕が派遣される。傷を負わせて追い出す。主人は僕では埒があかないと考え、今度は息子を派遣する。しかし今度は、相続を自分たちのものにするため息子を殺して、ぶどう園の外に追い出してしまう。私たちは気づく、僕たちは誰であるのかを、三人目の僕がバプテスマのヨハネであることを。主人は最終手段として息子を送る。その結果、息子も殺され、隅の親石となる(詩篇118)。預言者たちが時の権力に対して、抵抗せずに迎合するのであれば彼らは迫害され、弾圧されることもましてや殺されることもなかったはずだ。

 5月3日の憲法記念日に「松戸憲法集会」に出席した。原発、安保法案に対してジャーナリストとして矜持をもっていた岸井成格はnews23のアンカーマンを降板させられる。その時の事は佐高信との対談集に詳しく書かれている。今、私たちの国は「茶色の朝」に刻々、刻々と近づいている。手をこまねいていて良いのか、良いはずがない。M・ニーメラーの言葉が思い起こされた。「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから/社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから/彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから/そして、彼らが私を攻撃したとき私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった(彼らが共産主義者を攻撃した朝)」

イエスを信じるものとして、どのように生きるのか、出る杭は打たれるので関わらない、あえて火中の栗は拾わない。そのような態度を「戦責告白」をしている教会がとる事がゆるされるのか、主の御心に生きるならば、わたしたちは勝手な農夫のはずがない。