【新しいかたち】
ルカによる福音書20章27~40節    

 兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡を嗣ぐ。このような結婚形態をレビラート婚という。その制度は申命記に基づいている。この規定によって、子どもを残さずに死んだ男性の家の名が途絶えることなく、財産も家族の内に留めておくことができた。子孫を絶やさずとは「家」中心の家族形態を意味した。このようなレビラート婚が行われていたことを前提にサドカイ派はイエスに質問を挑んでいる。

 イエスは答えられる「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者から復活するのにふさわしいとされた人たちは、もはや死ぬことがない。天使たちに等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」(36節)ここに次の世はこの世の延長線ではないことが明らかにされる。死は終わりではない。しかし死は新しい世界への入り口でもある。

 性的少数者と言われる人々について先週、婦人会で学び合った。聖書は男女という性別をどのように考えるのか、「異性愛」「同性愛」をどのように捉えているのか、子孫繁栄を考え、結婚制度を確立する限り、それに反した結婚制度は容認出来ない。しかし結婚したから必ずしもこどもが与えられるとは限らない。結婚が神の祝福であるとするならば、子どものない異性愛者はどうなるのか。

 LGBT差別禁止に先進的に取り組んでいる都道府県の取組レポートを読んだ。渋谷区、世田谷区だけではなく、様々な市区町村の取組が紹介されていた。新たな家族制度を容認するのか、人権の問題としてわたしたちはこの問題を考えねばならない。それらの価値観と、LGBTの価値観は相容れないのか、新しい家族のかたちが問われている。

 復活を信じていないサドカイ派の人々に対して、イエスはモーセの召命記事を通して語られた。神は死んだ者の神ではない。生きている者の神なのだ。(神に生きる)このイエスの答えにサドカイ派は愕然とした。そしてサドカイ派と対立する律法学者・ファリサイ派の中には支持する者もいたと書かれている。

 保守的な思想の持ち主の大方の人たちはこのような同性婚は受け入れない。『信徒の友 』6月号で「クリスチャンとして考える憲法改正」と言う短期連載記事がある。書いているのは弁護士で同志社教会員の伊藤朝日太郎さんである。今回は「信教の自由と教育勅語」が取り上げられていた。

 「一旦(いったん)緩急(かんきゅう)アレハ(ば) 義勇(ぎゆう)公(こう)ニ奉(ほう)シ(じ)以(もっ)テ天壤(てんじょう)無窮(むきゅう)ノ皇運(こううん)ヲ扶翼(ふよく)スヘ(べ)シ」ひとたび国家の一大事(戦争)になれば、勇気をふるいたて身も心もお国(天皇陛下)のためにささげることで、天にも地にも尽きぬはずのない天皇陛下の御運勢が栄えるようにお助けしなければならない。

 この1890(明治23)年10月30日に明治天皇の勅語として発布された教育勅語には、父母に孝行し、兄弟や夫妻は仲良くし、友達とは信頼しあうように、という一般的な徳目も並べ立てられている。そのため、「教育勅語にはいいことも書いてある」と、教育勅語の復活に賛成の人たちもいるようだ。そこには万世一系の天皇家を中心とした「国家」という価値観、国体思想がその根底にある。新しいかたちとは、個の主体性、意志が尊重される社会なのではないか。