【祈りの家】のはずが
ルカによる福音書19章45~48節

 わたしたちは3月1日からレント四旬節を過ごしてきた。イエスはエルサレムへ入城される。エルサレムに入城される前、イエスはザアカイと出会い、ザアカイは回心「低みに立って見直す」(本田哲郎訳)する。その結果、彼は「主よ、わたしの財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します。」と宣言する。彼にとってイエスとの出会いは新しい人生の一歩であった。そして弟子たちと敵対する者たちに「ムナ」の譬えを語られる。その中で「主人は必ず旅から帰ってくる。その時、僕らは呼び集められ、怠惰な僕は裁かれる。」と言われる。主の来臨を意識して日々の生活を送ることが示される。

 イエスは子ろばに乗って「エルサレム」に入城される。武力行使の象徴が「馬」だとすると、「ろば」は平和を意味する。別の言葉で言えば、イエスは最も虐げられた人々と共に歩むために、「子ろば」に乗って、すなわち非暴力で「神の国」の福音を実践される。

 しかし、それとは正反対と思われるのが、神殿で商人を追い出した。と言う行為にほかならない。なぜ、ルカをはじめとする福音書の記者はこの「事件」を記したのだろう。

 森一弘司教の『人はみな、オンリーワン』には、「置かれた場所で咲きなさいと言われても、そこが石地の人は、どこで咲くのでしょうか? 」と問うている。彼はキリスト教に出会い、やがて神の召命を受け、カトリックの司祭となる。そして修道司祭として歩み始める。そこで大きな壁にぶち当たる。それは精神的に重荷を負う人たち、DVで苦しむ女性たち、抑圧され、差別される人たち、すなわち方程式では解けない様々な問題に司祭としてかかわる中で、自分に何が出来るのだろう。何をしなくてはならないのか。そこで彼は聖書を読み直す。その意味では日雇い労働者の支援活動を通して、彼らの視点で聖書を読み直している本田哲郎神父に類似するものがあるのかも知れない。

 イエスはなぜ、このような過激な行動にでられたのか、神殿での商売は「神殿祭儀」と密接に関係していると考えられる。罪を犯したものがその罪を許して戴くためには、犠牲獣を献げねばならない。レビ記1~7章を読むとその事が詳しく書かれている。

 貧しい人々は何とかして鳩を献げた。鳩しか献げられなかった。しかし鳩を献げることも出来ない人たちがいた。イエスの周囲に助けを求めてきたのは鳩すらも献げることが出来ない人、律法を遵守出来ない人たち、神殿に来ても、犠牲獣(牛、羊)もローマ硬貨を両替して神殿に献げることも出来ない人たちである。すなわち「置かれた場所で咲く」ことが出来ない人たち、その人たちと寄り添うために、イエスはこのような行動にでられた。そこには神殿に対する批判と同時に宗教家に対する厳しい問いがある。イエスは常に貧しい人々と共におられた。それがガリラヤでの宣教に他ならない。ルカ福音書によれば、エルサレムへの道も十字架に至る道である。

 私たちは受難週を迎えた。エルサレム入城からはじまって、宮浄めの月曜日、論争の火曜日、ベタニアの水曜日、洗足木曜日(最後の晩餐)、受難の金曜日。めまぐるしい最後の一週間を過ごされる。イエスは神の子羊としてその身を献げられた。貧しい者、虐げられた者たち、人々が「神の国」に入る資格がない。とレッテルを貼られた人々と共におられるために、「苦難の僕」(イザヤ42・1-4、49・1-6、50・4-9、52・13~53・12) として、知られている。 最後にイザヤ書53章を読みたい。そして復活の朝を迎えよう。