【何の権威で】
ルカによる福音書20章1~8節

 作家の五木寛之が、死ぬ前に是非あって話がしたい。という人が本田哲郎神父であった。彼は本田哲郎の訳した「聖書」に感動した。衝撃を受けたことが、このように書かれている。「キリスト教と仏教とのちがいを、「愛」と「慈悲」から説く人は少なくない。しかし、本田さんの『聖書』の読み方はそうではない。キリスト教の思想の中には、深い心の痛み、はらわたに達するような悲しみがあるのだ。顔をあげて天をみあげる前向きな姿勢とともに、地にうなだれる涙する感嘆もある。私が本田さんのことばに心を揺さぶられるのは、そんな弱い人間を底辺からたちあがらせようとする静かな決意に触れたからだった。」と書いている。

 そして、彼の訳した聖書を枕元に置いて、線を引き、付箋を貼りながら読んでいると言う。作家五木寛之の名前を多くの人は知っている。彼が親鸞に傾注し、親鸞を深く捉えようとしている。彼は「抑圧された」人々の視点で書いているようだ。その中で自分の満州での引き揚げ体験の苛烈さを率直に語っている。「たとえば引き揚げの極限状態の中では、トラックに三人しか乗れないということがある。でも五人まだ残っているときに、すがりついてくる人間を、先に乗った人間が足で蹴落とさなければ、生きて帰ってはこれないわけですね。」まさに「蜘蛛の糸」の逆バージョンを引き揚げ体験の苛烈さから語っている。そしてそのような自分、生き延びた者たちを彼は「悪人」と受けとめていた。すなわち親鸞の「善人尚もて往生をとぐ、いわんや悪人をや」悪人とは自分であると受けとめていた。まさに「悪人正機説」の「悪人」であるわたしでも救われる。このことを知った時の感動が語られていた。

 イエスを陥れようとする祭司長、律法学者、長老たちはイエスに詰問する。「何の権威で聖職者にしか許されてはいない神殿で語るのか。」イエスの教えに耳を傾けたのは、民衆である。一連の物語と関連づければ「神殿での事件」を知らなかった人たちではない。

イエスはその人たちに福音を告げられた。それに対して当時の宗教指導者たち、エリートたちが強く迫る。「何の権威で」どのような資格でここで語るのか。そのような質問に対して、イエスは逆に彼らに質問をする。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに応えなさい。」そこでイエスは彼らに問うている。「ヨハネの洗礼は天からのものか。」ルカはバプテスマのヨハネを民衆は預言者だと信じ込んでいた。と記している。彼はヘロデ・アンティパスによって斬死刑に処せられる。ここでいかに民衆の中で彼が大きな存在であったのかがわかる。イエスの問いに彼らはまともには答えることは出来なかった。宗教は「権威」をある意味振りかざす。組織が強固になればなるほど強さは増す。そして「異端」というレッテルを貼られると「排除」される。

 真宗の門徒もキリシタン同様に迫害、弾圧を受けた。その弾圧はすさまじいものであった。「門徒物知らず」と言われた人々は抵抗の手段として、一揆を起こし、逃散した。 権力は秩序を乱すもの、破壊するものを決して容赦はしない。組織が出来ると、権威が発生する。権威が、権力となる時、排除の論理が起こる。ローマ信徒への手紙13章1節「神の下にある権威であるならば」と言うことに他ならない。イエスは語られた。あの「神殿事件」を通して、その行為は声なき人の声を聞くに他ならなかった。礼拝後、総会が行われる。賀川ミッションを継承する「礼拝共同体」の在り方が、問われている。