【神の国】を受け継ぐために
ルカによる福音書19章11~27節

 暴君であるヘロデ王の死後、国は三つに分割され、アルケラオは、ユダヤ地方、アンティパスはガリラヤ地方、フィリポはガリラヤ地方の北イトラヤとガリラヤ地方の東トラコンを統治した。時のローマ皇帝アウグストゥスは、アルケラオに対して、統治は認めたが「王」とはしなかった。それは彼の統治を恐れ、認めない者たちが50人の使節団を遣わして彼の情報を提供したからである。これを知ったアルケラオは激高し、多くの人たちを粛正し、虐殺した。マタイ福音書2章22節には暴君ヘロデ・アルケラオのことが記されている。

 イエスは民衆がこの「出来事」をよく知っていることを前提にこの譬えを語られている。この譬えを読んで気づかないであろうか?「タラントのたとえ話」とあらすじが似ていることを。主人は旅に出る前に5タラント、2タラント、1タラントを預ける。5タラントを預かった人は倍の10タラントにする。2タラント預かった者も倍の4タラントにする。しかし1タラントを預かった人は「穴を掘り、隠す」主人が旅から帰ってくる。そして1タラントを預けた者に対して、「怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさないところからかき集めることを知っていたのか。それならば銀行に預けておくべきであった。そうしておけば、帰ってきたとき、利息付きで返してもらったのに。」1タラントでも労働者の賃金6,000日に相当する。タレントという言葉はこのタラントから来ている。主人は旅から帰る。そして精算する。この譬えはその次の譬えとセットで読むならば、これが、来臨の時のわたしたちの生き方であることがわかる。この譬えを頭に入れて、この「ムナ」「ミナ」の譬えを読みたい。1ムナは労働者賃金の100日分、主人は80万円を渡す。一人の僕は800万円にする。もう一人の僕も400万円にする。しかし主人を恐れていた僕は「布」(手ぬぐい)に包んでしまっておいた。その僕に対して主人は「悪い僕だ」といい、10倍の者に与える。その働きに応じて彼らは代官となる。

 神の国は未だ来てはいない。イエスがエルサレムに入城し、苦難、受難そして十字架・復活を経て、聖霊降臨の「出来事」によって教会は誕生する。教会に「神の言葉」が与えられる。教会はその言葉を語る。しかし語るだけで「神の国」の実践がなければ、十分だとは言えない。イエスは弟子たちに「神の国」を語られた。その神の国は「見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人々は福音をつげ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(ルカ7章21~23節)と言われている。弟子たちはこの福音を語り、実践した。ペトロの「美しい門」の出来事はそのことを物語る。(使徒言行録2章6節)来週わたしたちは「棕櫚の主日」を迎える。最後の一週間を覚えて、主の十字架について黙想する。ムナの大きさ、タラントの多さが問題ではない。大切なことはイエスが示された「神の国」のビジョンに参与するか、どうかである。「罪人との供食」この行動がわたしたちに語りかけるメッセージを聞かねばならない。そしてその「みことば」に活かされた教会は祝福される。