【イエスに従うとは】
ルカによる福音書18章18~30節

 イエスは「神の国運動」を推進するために弟子たちを集める。最初にイエスに声をかけられたのは漁師ペトロである。彼はイエスが大漁の奇跡を目の当たりにして、ゼベダイの子ヤコブとヨハネと共にイエスの弟子となる。マルコが「彼らが直ちに網を捨ててイエスに従った」と記したのに対して、ルカは「大漁」というしるし(奇跡)でイエスに従ったと記している。彼らはイエスと寝食を共にし、貧しい者、虐げられている者、抑圧に苦しんで喘いでいる人、先天的な病気、障がいのある人、生活苦の故に自分のからだで生計をたてるより術のない女性たち、すなわち律法では「罪人」というレッテルを貼られたすべての人たちに言葉と実践を通して、「神の国」について弟子たちに教えられ、彼らはイエスの「同労者」となる。

 ここに一人の人物が登場する。地位も名誉もある人で、沢山の資産も持っていた。マルコでは「富める青年」として描かれているが、共観福音書に共通するのは、彼は品行方正で、人々から後ろ指を指されるような生活はしていない。彼は、イエスに質問する「何をすれば永遠のいのちを受け継ぐことが出来るか」その彼に対して、イエスは「持っているものを貧しい人々に分け与えなさい。」と言われる。しかし彼はイエスの言葉を受けとめることは出来なかった。地位のあるエリートに対する厳しいイエスの言葉、そしてその人の失意が描かれているが、それにとどまって読むだけでは不十分である。そのために、24節~28節は、それがどれだけ困難なことなのかを比喩として受けとめ、28節以下を分かち合いたい。ペトロは、誇ったように「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました。」と言ったと記されている。ある訳では彼のその時の様子をこのように訳す。「するとペトロがその分厚い胸をどんと叩いて、誇らしげに行った。御覧じろ俺たちは我の持ち物をぶん投げてお前様に付き従ったのでござる。。」(山浦『ガリラヤのイエシュー』)わたしはこのペトロの言葉にわたしたちが陥る「落とし穴」があると思いながら読んだ。ペトロは「すべてを捨てて」「すべてを断念して」イエスに従っている。しかし、ペトロは真の出家者として、本当にイエスに従ったと言えるのか。

 遠藤周作の『沈黙』がマーティン・スコセッシ監督によって映画化された。そこには司祭ロドリゴの苦悩が見事に描かれていた。キチジローの演技は見事であった。心の中でイエスを信じているのだから、踏み絵を踏むことには躊躇しないキチジロー、司祭を密告し、それで報酬を得るキチジロー。けれどもそれでも司祭に最後までつきまとうキチジロー、遠藤はこのキチジローの中にペトロとイスカリオテのユダをだぶらせるだけではなく、自分を同化しているのだと思った。「裏切り者」と扱われるキチジローの中に生身の人間の姿がある。キチジローに共感する自分がいる。

 しかしわたしたちは再び聖書に導かれるならば、イエスの言葉を割り引くことは出来ない。すべてを捨てて(断念)従いなさい。その者だけが祝福を受ける。ペトロは「自分はすべてを捨てて」と自信満々にイエスに答える。けれども彼は、「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度知らないと言うであろう。」(ルカ22章34節)とイエスは言われた。彼は「どんなことがあっても・・」と言ったが、「逮捕されたイエスとお前も仲間だ」と言った大祭司の庭で女中の言葉に反応し「わたしはあの人を知らない」(22章57節)と答え、イエスの弟子であることを拒否している。そこには保身を捨てイエスに従ったペトロはいない。しかし彼は変わった「復活」の証人となり、聖霊を受けたことで。