【理解出来ない人たち】
ルカによる福音書18章31節~34節

 イエスはここでご自身の「苦難」について弟子たちに言われる。9章51節「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」その前の箇所、9章21節~27節で、43節b~45節でご自分の「受難」と三日目に復活されることを語られる。また17章25節で「しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」と語られ、この「受難」「苦難」は避けて通ることは出来ないことを福音書の記者たちは語る。マルコ福音書を下敷きにしながら、ルカは弟子たちに対してイエスがどのような言葉を言われたのかを記す。「エルサレムに上る」と言うことがどのようなことを意味するのか、わたしたちは知らねばならない。マルコ福音書は地理的な背景だけではなく、ガリラヤについて語ると同様、ルカにとってエルサレムは大きな意味を持っている。9章51節「エルサレムに向かう決意をされた」と言うことは、ルカにとってエルサレムは苦難を意味するからだ。そしてその事はイザヤ書53章を読むことで分かる。

 イエスの6つのひどい扱い(苦難表現)が語られる。①引き渡される。②侮辱される。③乱暴される。④つばきをかけられる。⑤むち打たれる。⑥殺される。(マルコ15章16節以下) イエスの十字架は避けて通ることは出来ない。エルサレムの道は十字架の道に他ならない。ローマカトリックの説教師ラニエロ・カンタラメッサは、『イエス・キリストを思い起こしてください』の中で「福音書は前口上の非常に長い受難物語である。」とあるプロテスタントの神学者の言葉を引用する。わたしたちは福音書を読む時、イエスの受難の意味となぜ、イエスが受難に遭われたのか、その事を考えねばならない。福音書はイエスがどのようなかたちで「神の国」の福音を語られたのか、誰がその言葉を受けたのか、どのような業を行われたのか、その事を語る。そしてマルコ福音書では弟子の無理解を強調する。イエスは弟子たちには理解されていない。青野太潮さんが新著『パウロ』(岩波新書)で、イエスの十字架は、現在完了形(完了している動作が今も継続している)であると言い、「十字架につけられてしまっているキリスト」と訳している。

 イエスは弟子たちに「受難」予告を三回もされている。ルカは2回目と3回目で「彼らには理解出来なかった」と書いている。理解出来ない人たちとは、第一に弟子たちを指している。弟子たちは受難、苦難するイエスを理解出来なかった。復活と聖霊降臨の時まで。そしてこの言葉はわたしたちに問う。苦難のイエス、「十字架につけられ給えし、ままなるキリスト」は、今も苦難を負う人々と共にいる。あの3.11の津波で一瞬のうちに全てを失った人、今なお復興とはほど遠い日常生活を強いられている人たちの「苦悩」の只中にイエスはおられる。ある神学者は重い心臓病で「闘病生活」を余儀なくされ、回復してNHKの「心の時代」のインタビューで「イエスさまの十字架はわたしのベットの下にある」と言われた言葉を思い起こす。

 エルサレムの「道」は苦難の道である。イエスは自己の使命を見据えながら、エルサレムへと近づいて行った。使徒言行録のパウロもそうであった。どのような困難、苦難が待ち構えていようとも行かねばならないエルサレムへの道。われわれ自身のエルサレムを発見し、その道を一歩また一歩と進んでいるであろうか。四旬節のこの時に立ち止まって考えたい。