【神の国に入る資格】
 ルカによる福音書18章15~17節

 最近『知的障碍者と教会』-驚きを与える友人たち-というダウン症の子どもを抱えている母親(フエイス・パウアーズ)が書いた本を読んで、20代の前半で考えさせられた重い知的障害(児)者の施設のリーダーの福井達雨さんの文章を思い起こした。それは「施設に入所している重い知恵遅れの人は、日本キリスト教団の教会では信仰告白を言葉に出来ないので、洗礼が受けられず、福音派の教会で洗礼を受けた。そこでは「『イエス様は大好きですか』という牧師の言葉であった。」という文である。申命記6章にある「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っている時も道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。」

 ある聖書学者はこの言葉は男性に向けられている。男性(家長)を通してこの「信仰告白」がなされ、女性たちは男性を通して、子どもたちは父親からこの教えを聞かされた。すなわち、女性と子どもたちは例外を除いて直接に聞かされることはなかった。ましてや赤ん坊はその眼中にも入ってはいない。子どもについて、あるラビはこのように語ったとされている。「朝寝、昼酒、子どもとの無駄話、民衆の溜まり場での道草、これらが人を滅ぼす。」このラビの言葉は当時の常識で、弟子たちもそのように考えた。女、子どもが、「ガヤガヤ」とやって来て、先生にまとわりついて困る。マルコだけがイエスの態度を言及する。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。」

 イエスは常に「律法」では「無資格者」とされていた人々に神の国の福音を語られた。あの徴税人とファリサイ派の祈りでもわかるように、神の前に祈る人はファリサイ派ではなく、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんで下さい。」といった徴税人であった。資格すなわちライセンスを得るために人々は躍起になる。そのライセンスが難しければ難しいほど必死になる。そうでなければ難関はクリアー出来ない。

 先に紹介した本の解説を書いている片山 寛師(西南学院神学部教員)は、その中でバプテスマを受ける者と教会の共同的信仰は、誰か特定の人間だけに必要なものではなく、すべての人に必要なものとして与えられ命じられている。それは「『神の選び』が単なる『個人の選び』ではなく、『イスラエルと教会』を通して、すべてのひとりひとりの選びであるから、「個人」「ひとりひとり」を区別すること。そして単なる個人ではなく、共同体の中にあるひとりひとりを大事にすること。わたしはこの中に、知的障碍者を社会的・神学的にいかに位置づけるか、という今日的難問への答えが示唆されているように思います。」とスコラ哲学者トマス・アクィナスとバルトから学んだ彼は語っている。

 恵によって私たちはこの場に招かれている。そしてその招きはすべての人々に平等に与えられている。神の国に入る資格、それは私たちが獲得して得られるようなものではない。神の一方的な恵が注がれることで得られる。

 イエスは言われる、「子どものように神の国を受け入れなければ」と。「赤ん坊」に象徴される「小さくされた人々」の存在を受け入れる。それは弟子たちのような態度ではない。福音を生きるとは、能力で人間を量る価値観から解放された者に与えられる恵であり、私たちがそのように歩んでいるならば、わたしたちは神の国を受け継ぐことが出来る。あなたはどうかと、問われている。