【恵にいかされて】
Ⅱコリント12章1~10節 

 パウロはここで自分の「棘」について語っている。具体的には何が棘であったのかは定かではない。眼の病、うつ病、何らかの身体的な障がい、いろいろな諸説があるが、定かなことはわかってはいない。言えることはこの「棘」は彼の働きにとってはマイナスに他ならなかった。彼は最初に自分の「体験」をあたかも第三者が「体験した」ことであるかのように語る。当時、天は三層からなっていると考えられており、第三の天とは神さまが住む場所「楽園」を意味した。そのような体験(神秘)を語る。彼は「啓示」を体験する。

 使徒言行録9章にはパウロの復活のイエスとの出会い、この道を迫害・弾圧するものからこの道を推進するものへと変えられたパウロのことがルカの筆によって語られる。また彼自身はフィリピ信徒への手紙3章2~11節でキリストによって新しく歩む恵を力強く語っている。彼はダマスコで「復活」した「十字架につけられたままのキリスト」に出会う。申命記11章23節に「木に掛けられたものは呪われる。」だからこそ彼はこの道の者たちが十字架は救いであると語る者を容認することは出来なかった。しかしこの出来事(体験)で彼の価値観は一変する。Ⅱコリント11章24節以下を読むと、使徒となったパウロの宣教の歩みがいかに厳しいものであったのかが語られている。先に読んだフィリピ信徒への手紙1章27節以下には「キリストのために苦しむことも、恵として与えられているのです。」とパウロは語る。しかし、わたしたちがこの苦しみから逃れたい、避けて通りたいと思うのは自然な事である。彼は強がりではなく、これらの体験を恵として受けとめている。

 今日私は「恵にいかされて」という説教題をつけた。キリストを信じていようといまいと私たちは「苦難」から逃れる事は出来ない。義人とされたヨブは神さまを信じているのに次から次へと試練が彼に襲いかかる。友人たちは「因果応報」 の論理で彼を責める。私たちも試練を経験する。しかし私たちはその中でパウロのように神さまとしっかり繋がっているならば恐れることはない。

 彼は三度も「棘」が取りさられるために祈る。三度とは単なる回数ではない。彼は必死に神さまに祈った。けれどもその祈りは適えられなかった。それは思い上がらないために・・・与えられたことであるとパウロは言う。私たちは「恵にいかされて」いるのだろうか。恵にいかされているならば「弱さ」を誇ることが出来る。「霊的教師」として知られているナウエンは、優れた神学教師であった。精神医学、臨床心理学を身につけたカトリックの司祭であった。その彼が「霊的危機」を迎える。そして彼は「ラルシュ」(箱舟)に導かれる。そこで重い知的障害で、身体的にも障がいを負ったアダムと出会う。人の手を借りなければ何も出来ないアダム。ケアに戸惑うナウエン。しかしナウエンは変わる。今まで以上に彼は自分の「弱さ」を受け入れ、そしてラルシュの人々と共に生き、司祭として役割を果たすと共に、カトリック、プロテスタントだけではなく、多くの魂が枯渇した人々に珠玉の言葉を語り、人々は彼の言葉に慰められ、生きる勇気が与えられる。十字架の主、私たちはこの方によっていかされている。その恵を感謝しながら、キリストに繋がろう。恵にいかされた者、群として。(水元教会での宣教。)