【仕える者になりなさい】
ルカによる福音書22章24~30節

 先週、臨時総会(10/29)が行われ、「教会堂移設」に関する件は可決された。今後は私たちの教会の宣教方針である「地域に仕える教会」としてどのように歩むのかを共に聖書に聴き、祈りを併せて行ければと願っている。

 『キリスト者の自由』を著した改革者マルティン・ルターは、(1)キリスト者は、すべての者の上に立つ自由な君主であって、だれにも服さない。(2)キリスト者は、すべての者の下で奉仕する僕であって、だれにも服する。すなわち、キリスト者は、神によって罪ゆるされた(救われた存在)「罪人」として、神の御心を行い、この世の証し人として、信仰と愛に生きる(隣人愛)存在がキリスト者であるという。

 イエスの弟子たちは、ここで「誰が一番偉いのか」と論争する。マタイではヤコブとヨハネの母の願い(マタイ20章20~28) 、マルコではヤコブとヨハネの願い(マルコ10章35~45)として記すが、ルカは最後の晩餐の時であると記している。

 明らかに場面が違う。ルカだけが、ユダの裏切りをイエスが語られた後(ルカ24章23節)の論争が弟子たちの間に起こる。この論争をある訳では「激論」、又ある訳では「喧嘩」と訳していた。ルカはマルコ、マタイの記した言葉を知っていた。イエスは裏切る者に対して「人の子を裏切る者は不幸だ。」といわれているのに、弟子たちは誰が一番偉いのか、と論争している。

 この背後にはイエスの孤独がある。「いちばん論争」の中で、イエスは、「異邦人の間では守護者」・恩人、善行者、恩恵者と呼ばれている。人格的にすぐれていると言うよりもそのような評価を気にしているのが、王や権力者であるとイエスは言われ、弟子たちに向かって、「しかしあなたがたは『仕える者』になりなさい。」といわれる。イエスは、給仕・雑用するという行為と、またヨハネ13章には同様のメッセージが「イエスの洗足」の行為を通してわかる。わからないのが、28節にある「踏みとどまってくれた。」である。

 ある注解者は最後の晩餐の時に同席したことと言うが、その後に続く「ゲッセマネ」の祈りの時(マルコ14章32節、マタイ26章36~46節)、「オリーブ山で祈ったとき」(ルカ22章39~46節)弟子たちは「眠っている」。

 また逮捕されたイエスをペトロは「知らない」と言っている。ここには「あなたがたは、わたしが種々の試練に遇ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまっては」いないことが、福音書を素直に読めば一目瞭然である。しかし弟子たちは、踏みとどまる者として変えられた。それが復活体験、そして聖霊体験に他ならない。

 真に弟子たちがイエスの弟子となったのは、十字架・復活・ペンテコステの「出来事」を経てからである。そして「仕える者」となる。

 パウロはガラテヤ信徒5章で、聖霊による体験について語り、このように言っている。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5・22)であるという。

 私たちはキリストによって、罪赦され、今を生きる恵みの中にある。そのような私たちを神は「仕える者」として導かれる。私たちにその資格があるのではない。ただ恵みが先行することで、私たちはそのような者として歩むのである。そのことを心にとめ、聖霊の導きの中で、共に祈りをあわせ堀切教会宣教ビジョンをみんなで描こう。