【戸惑い】
ルカによる福音書22章35~38節    


 中学校の同窓会が行われ、45年ぶりに会う同級生もいた。中学生の時に同じ教会の教会学校に通った友人も、今は教会には繋がってはいない。

 クリスチャンは職場(会社)の中で、少数者である。

 カトリック神父 英 隆一朗師は雑誌『福音宣教』に「これからの社会を考える」と言う対談が1年にわたって掲載された。対談相手は平野克己牧師、曹洞宗禅宗の僧侶になったドイツのネルケ無方さん、最後は「リベラル保守」として積極的に発言している中島岳志さんである。

 三人の対談をふりかえりながら英 神父は次のように結んでいる。「イエスは当時、伝統的なユダヤ社会の中では、完全にアウトサイダーだった。ただ律法を守るという保守的な生き方を突き抜けて、彼は失われた羊を大切にする神のいつくしみの受肉であり、権化であった。

 完全なアウトサイダーであったがゆえに、十字架で死なねばならなかったと言う壮絶な最期を遂げたのである。私たちは、そのイエスに倣っていけるかどうか、それはどこまでいっても、アウトサイダーであり、マイノリティーの道ではないのか」イエスの弟子たちもまたイエスに倣うものである限りアウトサイダーの道、マイノリティーの道を進むことになる。

 最後の晩餐の締めくくりとしてこの話(「譬え」)をされている。わたしは今日の箇所を「戸惑い」とした。それはわたし自身がこの聖書を読み、イエスが言われた言葉が理解出来なかったからである。

 「剣のない者は、服を売って買いなさい。」すべてを捨てた弟子たちに対して、イエスは反対の事を言われる。暴力に訴える事の愚かさを弟子たちに語ったイエスがなぜ、その鍵は51節にある。その先取りとして剣(短刀)が語られている。と解している。剣は武力を象徴している。

 弟子たちはイエスの逮捕を阻止するため、武力行使をした。しかしイエスはその弟子たちに対して切り落とした耳を元通りになされた。弟子たちは押し寄せる敵に対して防護のために剣を持つことを命じられたのかもしれないが、 弟子たちはそのイエスの意図を理解出来てはいない。

 イエスは弟子に対して「それでよい」と言われる。その時、イエスはどのような思いで、この言葉を発せられたのだろうか。ルカはイザヤ書53章12節の言葉を引用する。苦難の僕として描いたイザヤの預言を後の教会はその方こそイエスであると告白する。犯罪者として無実なイエスが非業の死をしかも「十字架」刑に処せられる。

 街はクリスマスデコレーション一色となりつつある。また巷ではおなじみのクリスマスソングが流れている。無宗教の日本ではクリスマスの意味を十分に知らなくても、ハロウィンを祝うように、クリスマスを祝っている。

 今年は12月3日からアドベントに入る。保育園ではアドベント礼拝が来週の火曜日から行われる。伝統的にはこの期間、イエスの来臨について考え、そしてクリスマスを迎える準備をする。
 
 切迫する状況の中で、弟子たちは誰が一番偉いのか、と議論している。イエスは孤独である。弟子たちはイエスを理解出来てはいない。弟子たちは「剣」をどのように受け止めたのだろう。「今までの先生の言っていることとは違っている。」と弟子たちは考えたのだろうか、聖書には記されていない。私たちはこの背後に「十字架」への苦難の道があることを心にとめ、アドベントを心からむかえ入れる準備をして行こう。