【どんなことがあっても】
ルカによる福音書22章31~34節

 今日の箇所は有名である。33節「主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」この言葉は「殉教」と考えられる。今の時代、「殉教」という言葉は死語となっているといっても過言ではない。しかしキリスト教の歴史は「殉教」と切っても切り離せない。日本が朝鮮を植民地支配していた時、神社参拝、天皇崇拝を強いられた安 利淑さんの『たとえそうでなくても』という本とダニエル書を私は思い起こしている。

 ダニエル書は預言書ではなく本来は「黙示文学」に分類される。主人公のダニエルはハナンヤ、ミシェル、アザルとともにバビロンに捕囚される。彼のヤーウエに対する信頼は揺るがず、6章には獅子の洞窟に投げ込まれようともその信仰を貫いたと記されている。主はダニエルを守られた。しかし、私たちはそれほど強くはない。その事を見事に描いたのが遠藤周作の『沈黙』に他ならない。たとえ「踏み絵を踏んで」背教しても「主はあなたを見捨てない」。

 ペトロが「イエスを知らない」と言うことをイエスは知っておられる。今度はユダ同様にサタンがペトロに入る。サタンの存在は神話の世界であると考えてはならない。神は義人ヨブにサタンが入ることをお許しになる。イエスは「荒野の誘惑」でサタンに勝利されるが、イエスの弟子たちはそうではない。しかし、そのようなペトロのために「信仰がなくならないために」執り成しの祈りをされた。この執り成しの祈りには「赦し」がある。ペトロはこの時、イエスがペトロのために祈っているといわれてもピンとは来なかった。きっとその後に続くイエスの言葉もその時にはわからなかった。だからこそ「主よ、御一緒ならば牢に入っても死んでもよい覚悟は出来ています。」と言い放つ。この時ペトロは本当にそのように考えたのだろう。どんなことがあってもわたしはあなたに従います。彼はきっと高揚感をもってこの言葉をイエスに向かって語ったのだろう。それに対してイエスは言われる「今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」 イエスは知っておられたのである。ペトロが「知らない」ということを。

 しかし、イエスはそのようなペトロに対して、「信仰がなくならないように祈った。」「立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい」と。立ち直るとは、戻る、立ち戻るということである。ペトロは「どんなことがあっても」あなたに従いますと言うが、しかしペトロは牢に入ることも、まして殉教する覚悟がないに等しい事がわかる。22章の62節で「そして外に出て激しく泣いた。」この時、ペトロはイエスが「信仰がなくならないように祈った。だから立ち直ったら、兄弟を力づけてやりなさい。」と言われたことばの意味を知る。

 初代教会の歴史もまた「殉教」の歴史である。ローマ皇帝に対して忠誠を誓わず、「イエスを主」と告白するという行為は「覚悟」がなければ出来はしない。どんなことがあっても祈られたイエスがおられたからこそ、その事を成し遂げる事が出来た。ペトロは弱さを持つ人でもあった。それは私たちの教会のすがたでもある。信仰者が皆、ダニエルのようにまた安 利淑さんのように生きることは出来ない。遠藤周作が『沈黙』で描いたように、試練、苦難があればすぐに「知らない」と言うキチジローのような私たちがいる。イエスは私たちのために祈っていて下さる。