【部屋はどこにあるのか】
ルカによる福音書22章7~13節
                                 
 今日は神学校日・伝道献身者奨励日として、この礼拝が献げられている。プロテスタント原理の「全信徒祭司性」に立てば、牧師は教会に仕え、聖書を分かち合い、共に教会を形成するファシリテーター(水先案内人)である。

 39歳で殉教したD・ボンヘッファーの最後の言葉は「これが最後です。わたしにとっていのちのはじまりです。」である。ナチスは彼に対して、最近の研究に拠れば、断末魔の苦しみを与えて処刑したとされている。イエスが十字架上で「我が神、我が神なぜ、お見捨てになったのですか」(マルコ15・34)と言われて絶命されたように、彼もキリストに従う者としてどん底の死を経験する。

 イエスは最後の晩餐の準備をするためにペトロとヨハネを任命する。最後の晩餐はイエスの意志である。この箇所を読みながら、28節以下の「エルサレム入城」の記事を思い起こした(ルカ19章28~44節)。

 イエスはエルサレムに子ロバに乗って入城された。この子ロバに乗る行為は「十字架への道」を歩むことを意味する。彼は弟子たちと最後の食事をされる。22章14節の最後の晩餐が「過越祭」であったと言うことは大きな意味がある。

 この祭りはエジプトの奴隷であったイスラエル人が神の奇跡により解放された歴史を記憶する祭り「過越」(ベサハ)という言葉は、エジプト全土の長子が主の使いに滅ぼされる夜、門に子羊の血のついているイスラエルの家の上をその災いが「過越し」無事だった故事に由来する。(出エジプト12・13、21~27)

 この祭りは、神とユダヤ人の絆を子孫に自覚させ、民族のアイデンティティーを次代に継承させるもので、父親によって各家庭で行われた。ルカは「過越の子羊を屠るべき除酵祭の日がきた」と記している。ルカは意図的に祭りの時、弟子たちと最後の食事をしたと記し、その準備のためにペトロとヨハネが命じられて準備をしたと記している。そしてそのために「部屋を捜すように」命じられ、水瓶を持った男にその徴があると言われる。

 通常男性は革袋に水を入れて持ち歩いていた。ここに登場する水瓶を持った男は、奴隷である。奴隷は自分の意志で働いているのではない。主人の命ずるままに働く、その水瓶を持った男の主人の部屋で最後の晩餐がなされる。レオナルド・ダビンチが描いたような椅子に座りテーブルの上の食事を取ることはなかった。当時は、長いすに寝ころんで食事をした。そのため、広い場所が食事をするためには必要であった。ここで部屋とは「旅籠」(はたご)ルカ福音書2章7節の「宿屋」であった。イエスは祭りの日に弟子たちと最後の晩餐をされる。

 祭りは喜びの祭典である。人々は、この日、大いに喜び、羊を屠り食事をした。しかしこの最後の晩餐はそうではなかった。なぜならばそれは十字架に至る道の分岐点としての食事である。わたしたちはこの事を今、考えている。「部屋はどこにあるのか」 と主は問われる。この食事は交わりの場ではなく、弟子たちに決心・覚悟を迫る場となる。そしてサタンが入ったとされるイスカリオテのユダもその場にいる。祭りという喜びのただ中で、イエスは十字架への道を歩まれる。これからはじまるこの物語をわたしたちはどのように読むのだろう。主のみ言葉に励まされ、キリストに従う「高価な恵み」によって生きる者としてこの一連の物語をわたしたちは考えたい。