【共に食する共同体】
ルカによる福音書22章14~23節

 今日(10/22)は、「大義なき解散」によって行われた「衆議院選挙」の投票日である。争点は経済、憲法、消費税、原発などであるが、国民はどのような判断を下すのだろうか。将来の日本がどのような国となるのか、投票する私たちひとり一人の責任は重い。

 教会には様々な人たちが集う。わたしたちは主によって集められた「信仰共同体」である。『福音と世界』に掲載されていたマルゴット・ケラー女史(牧師・神学者・WCCメンバー)の「宗教改革と現在の社会」-現代人に届く神のことば-というインタビュー記事を読んだ。今のドイツでは世俗化が著しく、多くのドイツ国民は教会から離れる中で、「宗教改革」プロジェクトリーダー(2012年就任)として、彼女は語っている。奉仕するキリスト教(社会福祉活動・人権・マイノリティーとの関わり)については、概ね支持されているが、礼拝には集わない。ドイツにおける宣教の難しさを感じた。そしてそのことは日本においても同じような難しさがある。けれども共通の「言語」があると彼女はいう。すなわち、「信仰告白」と「主の祈り」である。国境・人種・言語は違っていても共にイエスに繋がる者は「主の祈り」によって結ばれている。

 イエスは最後の晩餐の席にいる弟子たちに対して「苦しみを受ける前に、あなた方と共に食事がしたいと、わたしは切に願っていた。」と語っておられる。また9章21節以下、43節以下、18章31節以下には「受難」を予告されていた。弟子たちはこのイエスの言葉を三度も(聖書では特別な言い回し)聞いていたはずだ。しかしその意図は弟子たちには通じてはいない。その事は24節以下を読めば一目瞭然である。神の国の福音を託されているのに、弟子たちはだれが一番偉いのか、と議論する。

 「使徒」とは特別に選ばれた人のはずである。しかしここに登場する「使徒」たちはイエスの最後の晩餐の意味すらも理解出来てはいない。過越の食事、それはイスラエルの人々にとっては解放の徴に他ならない。17節以下の言葉は、「主の食卓」への時の招きの言葉である。教会はこの「食卓」(晩餐)を「来臨」の時まで希望を持って守る。言葉の壁を乗り越えた「聖餐」、キリストの裂かれた体、流された血潮によってわたしたちはあがなわれている。しかし、ここにイスカリオテのユダがいる。「裏切る者が、わたしと一緒に手を置いている。」「売り渡す者は不幸だ。」「なげかわしいことだ」。(本田哲郎訳)とイエスはいわれる。

 共に食する「共同体」とは、教会である。教会には様々な人たちが集められる。様々な立場の人が集う。だれがイエスから叱責されるのかは来臨までわからない。弟子たちはそれぞれ自分のことではないですね。と不安な言葉をあらわにする。ユダはイエスに敵意をいだいている者に引き渡す。その結果、イエスは逮捕され、ローマ総督ピラトは、群衆の声にうながされ、無実であることを知りつつ、イエスを有罪にする。

 サタンがユダは入った結果、彼は「裏切り者」のレッテルをそれ以後貼られ続けている。イエスに従うということは生易しいことではない。自分の意志でわたしたちは「イエスに従って」いるようで、神さまがわたしたちを導かれる。

 今日私は、「共に食する共同体」とした。教会はだれをも排除してはならない。 ユダもその「食卓」にいたと言う事を心に留め、祈りを献げたい。