【主にあるよろこび】
江東伝道所との合同礼拝   詩編92編
                       
 わたしは毎週金曜日、黎明保育園の年長(きりん)組の子どもたちといっしょに礼拝を献げている。子どもたちの記憶力には驚かされている。その中で讃美歌をいっしょに歌う。「主イエスと共に」が今月の讃美歌になっている。主にある幸い、これはわたしたちが体験していることであろう。先週のきりん組の礼拝でこんなことがあった。「うれしいときも、悲しいときも」と歌うところを「悲しいときも、悲しいときも」と子どもたちが歌詞を間違えた。「うれしいときも、うれしいときも」ではなく「悲しいときも、悲しいときも」と言う歌詞の間違いの中に何か意味があるとわたしは感じた。

 イエスは神さまを信じる者を「幸いな者」と言われる。幸いとは幸福を意味するが、聖書では単なる幸福ではなく、どんなときでも、主が共におられて、わたしたちを支え励まし、慰め、導かれるからわたしたちは幸いなのであって、「順風満帆」な時にしか、神の恵みを感じることがなく、実感出来ないのであれば、わたしたちは主の恵みを十分には受けとめてはいない。と言うことになる。この詩編は「安息日」に歌われた詩編で、このような表記がされているのはこの詩編だけである。

 今日の箇所を読みながら、この箇所に関する注解を読んでいた。そこには主にある者の幸いと、主に背く者の滅びが語られていることに注目して解説されていた。

 わたしたちの中にも、神さまは神さまを信じている者にしか恵みを与えられない。と考えている人がいるかもしれない。しかし「因果応報的」な考え方をイエスは明らかに否定される。マタイ福音書「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるからである。」(5・43)またヨハネ福音書には弟子たちが「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」それに対してイエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(9・2、3)弟子の質問にこたえておられる。自分に災いをもたらした者に報復を願うのは当たり前だ。敵とみなした者が「どうなってもかまわない」という論理ではイエスの言葉は理解出来ない。わたしたちも神さまの前には多くの罪を犯している。しかしそのようなわたしたちと主は共におられる。そしてその人たちを贖って下さる。わたしたちに資格があるから、わたしたちは神さまの恵みを受けているのではない。神さまがわたしたちをありのままに受けとめて下さっているから、わたしたちは恵みに生かされている。

 神さまを信じるとは、どんなときでも「大丈夫だよ」と神さまがわたしたちを導いておられることを信じることである。このことをわたしたちは今日心にとめたい。神さまを讃美することが出来る。神さまの恵みにいかされている。だからこそ、その恵みを知らされた者として歩むことが出来る。それが主にあるよろこびに生きるわたしたちである。