【人の子が来る時】
ルカによる福音書18章1~8節

 アメリカのトランプ大統領のいう「忘れ去られた人々」は、貧しい白人労働者であり、その人たちを忘れているかのように振る舞っているのが、既得権層(エスタブリッシュメント)に他ならない。しかし忘れ去られた人々は、貧しい白人労働者層だけではない。マイノリティーと言われている人々は皆、「忘れ去られた人々」である。聖書は、少数者の存在を脇に置くような「共同体」を厳しく戒めている。ここに登場するのは、不正な裁判官(神も人をも畏れない)と寡婦である。寡婦は「弱者」を象徴する存在であった。申命記(10・18~19、24・17、19~21、26・12~13、27・19)そのような人々を蔑ろにする者は律法に生きる者ではない。

 イエスはこの譬えを弟子たちに語られた。マルコ福音書6章3節にはマリア自身、寡婦であったと記されている。イエスはそのような境遇の中で育ち、その体験がこの譬え話を裏付けていると読むことも出来る。私は同じルカにある「真夜中に来た客人のために、友人にパンを借りる人」の譬えが思い起こされた。「執拗に頼めば、起きてきて必要な物を何でも与えられるであろう。」そして「主の祈り」の箇所を思い起こした。

 不正な裁判官を「神を畏れず人を人とも思わず」と言う人、「血も涙もない人」として語っている。裁判官は、神の正義と公平を行う人であり、人々から後ろ指を指されることのない人物で、当時は律法学者が裁判官として裁判に携わった。寡婦は理不尽な扱いに苦しんでいた。誰も律法に記されているようには、彼女の叫びを聞いてはくれない。彼女は何度も門前払いを経験する。けれども彼女はめげずに執拗に裁判官が、疲れ果て、目に隈が出来るまで何度も、何度も裁判官の所に赴いた。その結果、裁判が行われた。イエスはこの譬えを「祈りは聞かれる」と言う文脈で語っておられる。わたしたちは今、真剣に祈っている。隣接している黎明保育園の建て替えがスムーズに行われ、賀川ミッションが具現化するために教会がその役割を果たすことが出来るように、教会堂が「地域に開かれた」存在として位置づけられ、「居場所」を失った人々、「谷間」におかれた人々の「居場所」となる。教会のエゴで考えるのではなく、賀川ミッションが今の時代に行われるためにと祈っている。

 私はイエスが言われたことを信じる。寡婦をある人は教会として受けとめていた。すなわち「小さくされた群れ」として、しかし、現実の教会は…どうであるのかが、問われている。ヤコブの手紙1章27節「みなしごや、寡婦が困っている時に世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそが父である神の御前に清く汚れのない信心です。」真偽は定かではないが、パウロ(パウロが書いてはいないが通説)もまたそのような教会の姿を語っている。(Ⅰテモテ5・3) 教会は「弱者」のことを置き去りにはしない「信仰共同体」であり、恵みによって生かされた「礼拝共同体」に他ならない。わたしたちは祈ることが出来る。神さまはその祈りが真剣で必要であれば、必ず適えて下さる。その祈りが御心であれば聞かれる。わたしたちは常に終末に向かって生きる者でありたい。「人の子が来るときに、信頼をもって歩みを起こす人たちを、果たして地上に見出せるだろうか」。(本田哲郎訳)とイエスは弟子たちに語りかけておられる。互いに多様性を認め合い、様々な少数者、すなわち「忘れ去られた人々」、「小さくされた人々」と共に生きる。それが人の子(イエスの来臨)を待つ、わたしたちの信仰の姿勢であり、在り方ではないだろうか。