【うしろをふりかえるな】
ルカによる福音書17章31~37節
                         
ベストセラー『積極的考え方』を著したノーマン・ヴィンセント・ピール牧師は、聖書を通しての「自己啓発」を語った。彼の説教を完全に自家薬籠中にしたのがトランプであるが、しかし彼は「謙遜であること」「怒りに身を任せないこと」「口を慎しむこと」「人を憎まないこと」などの教えや、女性関係などは、受け入れなかった。と『反知性主義』を著した森本あんり氏は岩波の雑誌『世界』1月号で紹介している。

 勤勉と禁欲によって、資本が増資され、その利益を社会に還元することで、社会は発展、安定すると「資本主義」では説明されているが、しかし現実の世界はそうなってはいない。彼の排外主義的な考え方から、ヘイトスピーチ、ヘイトクライムが生まれてしまう、とわたしは懸念する。すなわち力による支配は人々を幸福には導かない。

 アブラハムは必死にソドムの住民のために執り成しをする。その結果、甥のロト以外は硫黄の火によって、町の住民、地の草木もろとも滅ぼされた。エゼキエル書にはこのように記されている。「お前の妹、ソドムの罪はこれである。高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった。」(16・49) 神の正義と公平を行うこと、これは神の御心に適う生き方を意味する。

 ソドムの罪の本質は不正義が公然と行われ、暴力が肯定されたことに他ならない。そのような暴力に対して、神はそのことを是認されることはない。ルカはマタイとは違い、このロトについて語っている。「洪水」が水であるとすれば、「硫黄の火を降らせた」とは火山の爆発である。神は水と火を通して、わたしたちに警告する。暴力、覇権、力による支配は退けられる。

 先週に引き続き、これは「来臨」とは無関係ではない。主の来臨はわたしたちの日常の中にやって来る。来客が自分の家にいつ来るのかが分かれば、準備万端整えて「待つ」ことが出来る。しかしいつ来るのかは分からなければ準備することは出来ない。けれども狼狽えてはならない。「屋上にいるものが家財道具を取り出し、畑にいるものも帰ってはならない。」終末の時、わたしたちは執着から解放されることが望まれる。ロトの妻は「うしろをふりかえった」結果、「塩の柱」となったと記されている。備えを怠れば、わたしたちは主の裁きをまぬがれることは出来ない。そしてその備えは日々の生活を主の御心に適うように生きることである。わたしたちは主のみ手の中にある。しかしそのことを忘れれば、わたしたちは「禿げタカの餌食となる。」わたしたちが、他者を思いやることなく、共生とは異なる道を歩むならば、わたしたちは主の裁きから免れることはない。「共生」の道は容易いことではない。生活が厳しくなれば、他者のことを思いやる余裕などない。という考え方は理解出来る。しかし、その理想を放棄して、ロトの妻のように「うしろをふりかえる」ならば、わたしたちは聖書に生きることにはならない。

 聖書に生きるとは、イエスに倣うことである。わたしたちはイエスのようには生きられない。しかしそのような自己を正当化するならば、それはロトの妻と同じではないのか。ロトの妻は「うしろをふりかえった」その結果、彼女は「塩の柱」になった。我欲、執着から解放され、すべてを主に委ね、主が再び来られると信じ、わたしたちに与えられた生を全うする生き方とは、「うしろをふりかえる」ことではなく、前に向かって前進することであり、未来に希望を持つ生き方に他ならない。閉鎖的な世界(社会)だからこそ、わたしたちはその生き方を選択しよう。主の来臨を信じる群れとして。