【悲劇は続く】
マタイによる福音書2章13~18節


 2017年がスタートしました。先週のクリスマス礼拝は、江東伝道所の方々といっしょに礼拝を献げることが出来ました。しばらく礼拝から遠ざかっている人たちも集い、みんなで「主のご降誕」のクリスマスを祝うことが出来ました。感謝です。わたしは思うのです。なぜ、フィクションであっても身に危険を感じたヨセフとマリアがエジプトに逃れた後に凄惨な事件が記されているのか、どうしてこのような悲劇をマタイは記したのか。何をわたしたちに伝えたいのか、わたしはいつも遙々星に導かれた占星術師が夢で示されて「別の道」を帰った後、なぜ、ヘロデは暴挙に出たのか。理由は占星術師に騙されたことを知った彼の怒りであると聖書は記しています。ヨセフとマリアは「難民」としてエジプトに逃れる事が出来ましたが、ヘロデによって2歳以下の男の子は、一人残らず虐殺されたのです。

 わたしたちはこの物語を読むとき、このような凄惨な出来事は今なお、続いていることを実感するのです。シリアの人々は戦禍を逃れ「難民」となり、不自由な生活を強いられ、シリアから脱出する事が出来ず、無差別な空爆で無辜な幼い子どもたち、年老いた人たちがいのちを落としている事実を報道で知らされています。それだけではありません。命からがらシリアを脱出することが出来た「難民」の人々を排除へ向かっているヨーロッパの国の事情を様々な報道を通して、知らされています。それがわたしたちの現実の世界の姿なのです。

  マタイ福音書の記述がフィクションであったとしても、悲劇は今なお続いているのです。為政者ヘロデの残虐性は、独裁者の残虐性を言い表しています。ヘロデは純粋なユダヤ人ではありません。(イドマヤ人、エドム人でヤコブの兄エサウの子孫)マタイはそのため、このような暴君ヘロデの行状を通して、ヘロデは純粋なユダヤ人ではないことを強調している。とある学者は解説していました。

 マタイはその悲劇をエレミヤの言葉を引用して語っています。預言者エレミヤはバビロンへの捕囚について語る中で、その悲劇は悲劇では終わることなく、希望へと続くことを語っています。このエレミヤ書31章5節の引用はマタイの意図による引用です。そしてこれは彼が読んでいたとされる70人訳(旧約ギリシャ語訳)です。わたしたちはエレミヤ書を読み進める中で、気づきます。

 今日わたしは、「悲劇はなおも続く」と言う宣教題をつけました。この宣教題に戸惑った人もいると思います。けれどもエレミヤ書へと導かれるとき、希望が語られていることを忘れてはなりません。

 現実の世界を見れば、排外主義がはびこり、格差は拡がり続け、環境破壊によって、未曾有の自然災害が世界を襲っています。違いを認め合い、互いを尊重し合うことが出来ずに他者を排斥する為政者を様々な国が選ぼうとしています。けれども忘れてはならないのです。ラケルの悲しみは悲しみでは終わらない。その聖書のメッセージをわたしたちは心から受けとめましょう。

 今、讃美歌を歌いました。光りは輝いたのです。イエスが来られたのです。しかしイエスは「十字架」上でわたしたちの罪のために死なれ、絶望の淵で絶命されます。そして復活され、今は聖霊として、わたしたちを見守って下さっています。主の「来臨」の時まで、世界は蠢いていなければならないのでしょうか。