戦後の生活   東京都在住 Hさん
戦争中のこと(聞き書き)   葛飾区在住・足利市出身 Kさん
戦後生まれのあなたに伝えたい 東京都在住 Sさん 
学徒動員令が発令  東京都在住 Sさん 
東京大空襲、炎から守って下さった施設の人  東京都在住 Kさん 
昭和20年2月29日 東京都在住 Hさん  
集団疎開 神奈川県在住 Iさん 
西間木   東京都在住  80歳代
          「戦後の生活」
東京都在住 Hさん

 私は昭和16年開戦の年に生まれた。戦争中に過ごした新潟県長岡市は海軍大将、山本五十六の生家があり、軍需産業が活発だったので空襲は激しかった。わたしの幼い記憶の中には空襲警報の緊張感が今も残っている。

 長岡の街は危険だということで、昭和20年、父の故郷である新潟県の山間の農村に急遽引っ越すこととなった。山々に囲まれた水のきれいな穏やかな村だった。戦火とは程遠い安心感はあったが、建築中の家はまだ未完成で雨戸も風呂もなく、天井は裏山から切り出した太い梁がむきだしになっていた。雨戸が無いので台風の季節になると、飛ばされそうになる障子を家族で必死で押さえていた記憶は、姉弟が集まると笑いながらの話題となる。若い働き盛りの大工さん達は戦争に行っているので職人がいなくて年配の大工さんが一人で、ノミ、のこぎり、トンカチ、カンナで作業していた。終日材木にカンナをかけているような作業工程で、なかなか仕事は進まなかった。風呂場が完成するまでの期間は台所の一隅に風呂桶とタライを置いて身体を洗った。この頃のことを想うと、現代は便利な電動具でグワツーと建材を瞬時に処理できので、その効率の良さには感心するばかりである。

 食糧難は農村にいても、かなり厳しかった。米は配給制度だったので充分買うことは出来ず、農家にも米の供出が厳しく課せられていた。都会から食糧を買いに小さな村に人々がやってきた。私の家にも「食べられる物は何でもいいので売ってださい」と、母親、娘さん、父親、少年たちが来た。庭にサツマイモを広げていると「このイモを売ってもらえませんか?」と遠慮深く聞いて「どうぞ好きなだけ」と母が言うと嬉しそうにリュックサックに詰めていた。何人家族か知らないけれど、リュックサック一杯ぐらいのサツマイモは数日分にしかならないだろうなと私は子ども心に思った。イモや柿は警察に没収されないけれど 米はヤミ米として警察に没収された。

 ある日若い母親が「ちょっと失礼します」と言って我が家の玄関先で着物の裾を上げた。腰に巻きつけた袋に米が入っていた。一か所にまとまらないように10センチぐらいの間隔で縦に縫い込み、その中に米が少しづつ隠されていた。絶対に警察に没収されたくないという勢いで彼女は腰の紐を結びなおしていた。1升ほどの米であった。

 石鹸、衣料品、肉、甘いもの 紙・・・等が買いたくても品不足で高額だった。菓子店を営んでいた知人の母親が当時を振り返って「あの頃は甘いものなら何でもすぐに売りきれになっちゃうのよ。みんなが甘いものに飢えていたからね。早いもの勝ちで面白いように儲かったわよ」と言っていた。布が不足していたので、私の小学校の入学式には母のセルの着物をほどいて染めて洋服を作ってもらった。姉達のスカートも母の着物から作った。帯布は洋服に、帯芯は草履袋になった。運動靴など売っていなかったので父が布を編み込んでワラ草履を作ってくれ、上履きとして学校で履いていた。トウモロコシの皮を干して草履を作ってもらったこともある。とっても軽い上履きだった。
 
 小学校3年生の時、50人のクラスに2足だけゴム長靴の配給があった。豪雪地帯なので長靴は全員が欲しいと希望していた。抽選でわたしに当たった。購入条件は代金の他に使い古した長靴を1足提出しなければならなかった。古いゴム製品を溶かして再生に使用したのだろう。我が家には提出する長靴が無かったので、父の実家である本家に訳を言って譲り受け、学校に提出して、新しい長靴をワクワクしながら受け取った。ところが苦労して手に入れた新しい長靴は、ダンボールのように弾力が無く、硬くて2カ月でボロボロになってしまうような粗悪品だった。本家から譲り受け提出したゴム長靴は、あちこち修理してあったが、弾力があり良質の品物であったので、むしろそっちの方を履いていれば良かったと学校に裏切られた気持ちになり悲しかった。

 ある日、中年の男性が「タバコがあったら、このフライパンと交換して貰えませんか?
」と尋ねてきた。タバコも配給制で父がタバコを吸わなかったので、我が家にタバコは数箱残っていた。男性は大喜びで新しい頑丈なフライパンと交換して行った。鉄不足で鍋も釜も農機具もなかなか手に入らない時代、あの男性はどうしてこのような立派なフライパンを持っていたんだろう、金物屋さんだったのだろうか?と不思議だったり有難かったり。
その後このフライパンは私が結婚する時もまだ実家で活躍していた。
 
 中学校の卒業旅行は東京だった。嬉しくて貸し切り車両の中はお喋りで賑やかだった。突然4人の人たちが慌ただしく走り込んで来て、私たちの座席の足元に米の入った荷物を押しこんで「ごめんよ、ちょっと預かって置いて」と言って大急ぎで出て行った。私たちはその行為を瞬時に理解した。ヤミ米だ。でも誰も声を出さない。見回っている警官に見つかれば、全部取られてしまう。配給米は充分でなく皆がおなかをすかせていた。わたしたちがヤミ屋と呼んでいたこの人たちは田舎から米を都会に運び、帰りに衣類などを仕入れて田舎に運んで来ていた。同級生の親たちの中にもヤミ屋を仕事としている人は何人もいた。なんとなく我々の心に、「ようやく買えた米を、当然のように奪う警察の行為はおかしい」という感情が芽生えていた。しばらくしてヤミ屋さんたちは戻ってくると、窓を開けて荷物を外に投げ始めた。汽車はもうすぐ駅に到着する。そこには必ず警察が待ち構えている。没収される前に米を避難させたのだ。チームワークを組んでいるからこんな荒技ができたのだ。

 今は物にあふれた生活で、思い切って捨てる生活が推奨されている。でも私に捨てる事への抵抗感があるのは、戦後の物資不足の経験が骨身に沁みているからだろう。




             戦争中のこと(聞き書き)

東京都葛飾区在住・栃木県足利市出身  K.K               1927年(昭2)生

 まず、高等小学校に通っていた時のことから話すよ。
 歴史の時間は、天皇陛下の名前を「神武・綏靖・安寧・・・・・・」と順番に唱えるもので、修身の時間は教育勅語を唱えるものだったんだよ。覚えてしまうと、ただそれを繰り返せばいいので楽なことは楽だった。最近はさすがに最後までは言えないが、それでも結構覚えているものだ。

 修身の教科書に載っていた日露戦争の木口小平の「シンデモ ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」という話はよく覚えているなあ。

 午後の授業はなくて、近所の家に行って、軍に供出するための桑の皮をもらってくるんだ。校庭のすみが桑の皮の山になっていたよ。


 そのころは地区ごとに隊列を組んで登校していた。学校に行く途中、神社の前を通るたびに最敬礼させられた。帰りはめいめいなのでそんなことはしなかったけど。あの頃は本当に神風が吹くと信じていたから、戦争に負けた時、天皇陛下はうそつきじゃないかと思った。だから戦後は神社の鳥居をくぐるのもいやになった。それでもくせになっているので今でも「天皇陛下」と呼んでしまう。

 隊列の話だったな。校門の前で立ち止まり、奉安殿に向かって全員で敬礼するんだ。それを別の地区の班長が当番で見張ることになっていた。揃っていないと「やり直し!」とどなられて、もう一度やり直させられるのが嫌だった。ただ1,2度やり直せば、揃っていなくても通れるんだ、授業に間に合わなくなるからね。いい加減なものだ。

 悔しいので、当番になった時は、自分たちがやり直しさられせた地区の班長の列に向かって「やり直し!」と言ったよ。列がきれいかどうかなんて関係ない。お互いにその繰り返しだ。今から思うとばかばかしい。

 いたずらばかりして悪かったけど、奉安殿には全く興味がなかった。天皇陛下と皇后陛下の写真が入っていて、行事の時だけ校長先生が教育勅語を取り出すものだと知っていたから。

 ある時、学校で「満蒙少年義勇団」に参加しないかという話があった。満州に行けば、1町歩(約3000坪)の土地がもらえるというんだ。機織りのシャトルを作っている貧乏な家で、きょうだいも多かったから、次男の俺はその場で参加すると先生に言った。調子に乗ったところもあったかもしれない。先生も何人かは参加させないといけなかったんだろうな。

 家に帰って親父にいうと「いくら子どもが多くても、そんな遠いところに親戚は持ちたくない」と言われたので断った。
 1学年上からは8人参加して2人しか生きて帰ってこなかった。自分の学年は3人行って、ひとり死んだ。

 軍隊の話をする時は、「軍は〜」じゃなくて「海軍は〜」「陸軍は〜」といちいち分けて話すんだ。戦争が始まった頃は、太平洋の先まで日本のものになったのだから、盛りあがっている気分はあった。アジアを守るために戦っているのだと信じていた。戦死者が出ると何人かまとめて皆で盛大な村葬をした。息子がひとり戦死すると手当がでるから生活が楽になると陰口をいう人もいたものだ。終戦間近に不可侵条約を破ってソビエトが攻めてきた時は汚いことする国だと思っていた。
 おかしいのだけど、ずっとそう教わってきたし、あの頃はそういうものだと思っていた。

 軍歌の中では「戦友」が好きでいまも全部歌える「ここはお国を何百里離れて遠き満州の赤い夕日に照らされて友は野末の石の下〜」。悲しい歌だから歌ってはいけないということになっていたのにな(日露戦争での友人の戦死から郷里の両親の思いまでに触れた歌で、日中戦争の開戦時から厭戦的だという理由で歌うのを禁じられていた)。他の歌はあまり好きじゃない。

 足利は太田の飛行場(群馬県)が近かったから空襲は多かった。空襲警報が鳴ると防空壕に待避するんだが、真上に来ない限り、防空壕の上に座って、戦闘機を眺めるんだ。

 近くに国立の結核療養所があったんだ。ああいうところは攻撃しないことになっているはずなのに関係なく機銃掃射されていたよ。

 一度、グラマンとゼロ戦がぶつかるのを見たことがある。グラマンは、機体を左右にゆっくりと揺らしながら落ちてくるので、兵隊が落下傘で降りていくのが見えた。ただ、その兵隊は、すぐにその場で殺されてしまったという話だった。ゼロ戦は真っ逆さまに落ちていくんだ。落下傘なんか使っている暇はないよ、あっという間だ。日本は乗組員を守る気はないんだね。全然違う。ゼロ戦は近所に落ちたから見に行ったよ。機体が半分くらい田んぼにめり込んでいて、飛行機も乗組員も取り出すことはできないと言っていた。

 学校を出て、日産自動車に就職が決まった。当時はだれでも入れたんだ。でも、すぐ後に兄貴(1921年生)に召集令状が来た。駅まで皆で兄貴を送っていったのを覚えている。そんなわけで、俺には家にいて欲しいということになった。召集で男手がなくなった家が何軒もあるので手伝ったりもしていた。家では軍馬を育てていた。使えるようになったら軍に返すという約束で面倒を見ていた。そのうちに戦争が終わったので、返すところがなくなって、家で飼うことになった。戦争が終わって残ったのはこれくらいだ。

 原爆が落ちたことは知っていたが、それがどんなものだったのかは知らなかった。玉音放送は聞いていない。たぶん外に出かけていたのだと思う。

 終戦から1年半くらいして、兄貴が帰ってきた。北支だからまあまあ早く帰ってこられたのではないかと思う。南方や満州なんかだったら大変だったのではないか。栄養失調でガリガリになって帰ってきた。
 戦争に行く前は、長男でいばってこわかったのに、その後すっかり弱くなってしまったのにはびっくりしたよ。

 こんなことがあったから日本はもう戦争をするわけはないと思っているのだが・・・・・・。





                     戦後生まれのあなたに伝えたい

               東京都在住 Sさん 

 戦後71年 あの悲惨な戦争を経験した人が今少なくなっています。

 私が生まれた1925年(㍽14年)は 日本経済に金融不安が訪れ倒産が続出して失業者も増え、不況のいり口にさしかかり社会不安が膨らんでいた時代でした。 「大学は出たけれど」就職口はなく不景気のどん底でした。

 私の齢は昭和の年と同じで数えやすかった。20歳で軍隊に入るまで小学生時代から軍国少年として教育を受けて育ってきました。

 満州事変が1931年(昭和6年)に起きました。その頃から日本は言論が抑圧され本当のことが教えられず戦争への道へ突っ走り進んでいきました。

 いったん戦争が始まると人間は常軌を逸して後戻りが難しくだんだん深みにはまり込みます。私も卒業までは入営延期が特例の学校に入っていましたが、戦争急迫の為1945年(昭和200年)勉学半ばで20歳で軍隊に入隊しました。そして特攻隊にも志願しましたが、8月15日に日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏して負けました。その時は残念無念、涙が止まりませんでした。

 1946年(昭和21年)に平和憲法が制定されて71年が経ちましたが、日本は一度も戦争に巻き込まれないまま平和に過ごしてきました。それは日本に平和憲法があったからです。憲法9条には戦争はしない国際間の争いに武力を使わないとあるからです。

 8月の6日9日に原子爆弾が広島長崎に投下されました。原爆の被害は71年経った今も辛うじて生き残った人たちを苦しめています。私が軍隊(幹部候補生)に入隊した中に海軍少将の息子がいて、マッチ箱くらいの大きさの原子爆弾を今研究されていると聴いたことがあります。もし日本が先に原子爆弾を完成させていたら、ワシントンに一発、ニューヨークに一発落としていたでしょう。それが戦争なのです。勝った為に人間は狂気になり、戦争ということで平気で人殺しに走るのです。

 日本の国内を見ると、各地に空襲による焼け野原の都市、旧満州からの残酷なまでの引き揚げ者、これ等は一般の国民で女、子ども、老人でした。

 戦地に赴いた兵士について見ても、戦闘で戦死した兵士より補給路を断たれて病気や餓死した兵士、輸送船でそのまま轟沈した兵士が弾に当たって戦死した人より数倍亡くなった方が多かったのです。
 この戦争で日本人の死んだ人は300万人、戦った相手国の亡くなった方は1000万人、戦争がもとで障害を受けた人、数10万人、未亡人になった人100万人、老いた両親が子をうしなった人数100万人、結婚できなかった女性100万人。

 あの戦争、悪しき政治の結果です。戦争は政治が悪いから起こったのです。地球温暖化、核兵器、餓え、人権抑圧、難民・・・・、そんな負の問題を21世紀に引きずってはいけません。

 戦後生まれの国民の八割を超えた今、少年の頃戦争を迎えた人は80歳過ぎになり、最後の軍隊に入隊した20歳の私も90歳です。若い世代の皆さん、過去の話だと言わずに近未来のあなたの身に起こるかもしれない戦争、平和への思いをしっかり受け止めてもらいたいのです。

 十五年戦争をして日本はどんな利益があったのでしょうか。ただ恐ろしい、つらい、悲しいことが沢山起こっただけでした。

 台風や地震は、今日の科学技術をもってしても、人の力で防ぐことは出来ませんが、戦争は人間が戦争の非を悟り、止めれば防げます。

 憎しみで憎しみを消すことは出来ません。人の痛みの分かる人間になってほしい。平和の尊さのわかる人間になってほしい。人類共生の平和の世を夢見て訴える次第です。




          学徒動員令が発令
                                   
                              東京都在住 Sさん  
 私は大正14年生まれ現在90歳になっている。私の小学校時代から日本は戦争へ戦争と歩んで来た時代であった。

 5・15事件、満州事変、2・26事件・支那事変 そして太平洋戦争である。

昭和15年4月 東京都豊島師範学校予科入学し、昭和18年4月、東京都第2師範学校本科。

 戦時下の切迫した状況の中小学校は国民学校になった。その教員養成の学校である師範学校も新しく官立の専門学校として昭和18年から東京府豊島師範学校は東京第二師範学校男子部となり修業年限が一年延びて本科3年となった。師範学校は次代の青少年教育を担うという重大な任務があるので卒業まで勉学に専念できるはずだった。しかし昭和19年(本科1年生)学徒動員令が発令されたので、全国の学生は学校を離れて軍事工場に動員される事になった。そのため私は江東区砂町の内外製鋼砂町工場に19年7月1日から同期生40名と働く事になった。内外製鋼では、朝礼の後、我々の職場「中空」で16貫の丸い鉄棒(直径15センチ長さ1メートル位)を持ち上げて機械に取り付け刃をあてがい、中心をくりぬいてできあがりだ。途中刃が欠けて取り換える事がよくあった。旋盤で刃を研ぎ再び作業にかかる。この鉄の円筒に穴が空いた製品は圧延にまわされ、ひき延ばされ、炭鉱などのドリルの製品になるのだ。この工場も我々学生が4時に帰ると機械が止まってしまうので、学生が進んで正月から昼夜二交代で働くことになり、辛うじて操業が続けられる。

 私は、本科2年から神田に家があるというので、4年間の寮生活から通学生に変わっていた。

 このころ頻繁に敵B29の空襲がある。戦禍が近づいてきているので、やっと埼玉の知人の家に疎開の場所を決め、家では荷物をまとめ荷作りも終わり2月25日に荷馬車で埼玉まで運ぶ手はずが出来ていたが、当日生憎雪のため運搬出来なかった。その日空襲警報が鳴り響いた。

 昭和20年2月25日。神田の家は焼けた。その日は朝から雪が降り寒い日であった。

一日工場で操業して亀戸9丁目に向かった。電車は全て止まっている。仕方なく徒歩で家路につく。亀戸9丁目、錦糸町、緑町3丁目、両国と歩いて両国橋で通行止に合う。しかたなく人形町の方に迂回し、通れる道を探し神田の自宅のある方へ歩いて行った。

 須田町、司町は焼け残っていた。通りがかりの人から、この辺の人は万世橋の鉄道博物館に罹災者は避難しているとの情報を得たので行って見る。夜8時を過ぎてやっと会う事が出来た。

 母と義姉と三歳の姪は、焼夷弾が落ちた時家の前の銀行の地下に逃げたが、火勢が迫って来たので焼けてない須田町の方に逃げ博物館に避難民と一緒に避難したと言っていた。

 一晩そこで世話になり、翌朝岩本町にある千桜小学が焼け残っていると言うので、罹災者は雪の道をぞろぞろと移動した。

 罹災してから母たちは埼玉の疎開先へ移る。私は19年4月から富山町会の青年団団長に推されていて、町内の若者と共に活躍していたので、私一人千桜小学校に残った。

 師範生は理科系の学生と同様、青少年を教育する重要な任務が有るので卒業するまで入隊する事がなかった。

 20年2月1日になるとその特権もなくなり、20歳になるとすべて軍隊に行く事になった。私は第2期特別甲種幹部候補生の願書を出した。通知がないので池袋の本校に行き、教務で受験日を確かめる。その月の25日に神田の家は焼けた。

 一切のものが灰燼と化し、身につけている作業衣のみとなった。私の心の中はさばさばとし、これで何の後顧の憂もなく戦場に赴き国の為に戦死する事が出来ると思った。 

 特攻幹合格の通知を受けて一緒に罹災した町内の角野さんが、焼け残った司町の家に間借りしていて、私の入隊が淋しいと、友人知人20名程集めて壮行会をひらいてくれた。

 間貸しした家主が元魚屋だったので、どういう手づるからかお頭付きの魚一匹乏しい膳に付け僅かだが酒も用意してくれた。日の丸の旗に「祈武運長久」と書かれ参加者全員の激励の名前を書いてくれた。

 5月15日前橋陸軍予備士官学校に入隊、訓練は厳しく日々が死に物狂いだった。ある日区隊長から召集がかかり整列した一同に申し渡された。その言葉は今も鮮烈に覚えている。「お国のため特攻隊を志願する者は一歩前に出ろ」みんな一斉に前へ出た。迷いも恐怖もなかった。そして箱爆弾作戦が明かされ訓練が始まったのである。そのころ敵戦車が九十九里浜に来襲するという極秘情報が流れていた。首都への進攻は絶対阻止しなければならない。浜で敵戦車を爆破せよ。それが任務だった。

 箱爆弾を背負って九十九里浜に掘ったタコ壷に身をひそめ、戦車が迫るとタコ壷から飛び出し、キャタピラの下に飛び込んで爆破し運行不能にする特攻である。

 だが特攻を前に終戦は突然やってきた。8月15日玉音放送。ラジオから陛下の声が聞こえ負けたことを知った。感無量だった。覚悟はしていたが心の底では生きたいという気持ちがあったのだろう。まさに危機一髪。ああ死なずにすんだ、という安堵感がわき上がって・・・。銃に刻まれた菊の御紋を削り、特攻の機密書類等を焼却して部隊は解散した。




        東京大空襲、炎から守って下さった施設の人

              東京都在住 Kさん (87歳)
 70年前の昭和20年3月9日、私は東京都墨田区石原に住んでいました。家族は私設の社会事業「同朋館」に精力的に取り組んでいた父(51)、元小学校教員だった母(47)、私(17、都立第七高女、平田巧校長)、弟(16、第十六中学)、妹(12、外手国民学校)の五人家族です。

 前月の25日昼間、我が家に焼夷弾が落ち家の者で消し止め火災にはなりませんでした。

 それからずっと停電続きで8日の日にやっと電気がついたので、私はトランクに持ちだせる物を詰め眠りにつきました。いつ警報が鳴るか分からず誰もみな着替えをせず着衣のまま電灯は暗くして休んだのです。だが間もなくサイレンが鳴り響き、外の気配に母も妹もとび起き外に出て見ました。空にはB29が爆弾を花火のように炸裂させ昼間の明るさでした。

 とっさに持ちだしたのは用意したトランク、前の晩の残り物の入った鍋とお釜でした。飛び出した時一人の男性が待ちかまえていて一緒に手を取り逃げてくれたのです。その人こそ私たち母子三人の命の恩人「寺田さん」でした。

 父は大正12年9月の関東大震災直後、街の身よりの無い人々を収容できる宿泊施設を任され僧侶の身から一転その任に当たり、家族とは棟を同じくして生活しておりました。その後ずっと更生保護事業というお上からの支援もあって救済した人は数え切れません。その中の一人が寺田さんだったのです。

 父はサイレンの発令と共に警護に当たり、最後まで家に残りました。

 私たちが外に出て間もなく、北の方角(隅田公園)から火の手が見え風まで吹いて追われるように逃げたのですが、避難先の二葉国民学校へは行けそうもありません。仕方なく通りを突っ切って日進国民学校へたどりつき靴箱の並んだ昇降口へと入りました。

 学校は校舎も塀もコンクリート造りなので逃げ込んだその時は一瞬ほっとしました。でもたちまち人で埋まり、中にはお経を唱える人がいて私はもうどうしていいのか息もつけない思いでした。その場所は校庭に面していたため、やがて学校へ逃げ込んだ人々が中に入れてくれと大きな鉄製の扉を叩き、わめいている様子でしたが、中の人は火を防ぐため必死に押さえ、入れようとはしませんでした。

 どのくらい時間が経ったのか記憶に無いのですが、周りが急に静かになり人々がいなくなっていました。校舎にも火は移り恐くなって動こうとすると、寺田さんは私たちを体ごとおさえ「あっちへ行っちゃダメ。ここにじっとしていろ」と大声で怒鳴られたので、頭巾についた火を消しながら校舎の外の塀にしがみついていたので、難を逃れることができたのです。

 夜も明けたころ道路を隔てた前の家がすっかり焼け落ち、とろとろと残り火がくすぶっているところへはじき出されるようにして外へ出ることができました。

 後で分かったのですが、地下に下りた人、階上にかけ上がった人、外に行ってしまった人はみな亡くなられてしまったのです。持っていたはずのお鍋、お釜も何処かへ、トランク一つだけが手に残りました

 中に入っていた父の靴を妹に履かせ、三人で自宅の方に向かいました。その間目にしたのはマネキン人形のような姿になった人々の姿でした。

 母は煙で目をやられほとんど見えない状態で、私たちも顔は真っ黒、やっとの思いで跡形も無くなってしまった我が家にたどり着いた時、そこに父が立っていたのです。

 もしかしたらと思っていただけにその時の気持ちは言葉では言い表せません。
一夜で10万人の方が亡くなられたと聞かされ、翌日、目にしたあの光景は今でも忘れることはできません。

 生き抜いて87歳、子ども、孫、ひ孫と共に人々がどうか平和に安らかに暮らせる日が続くことを心から祈りながらこの手記をしたためました。




 
                       昭和20年2月29日

                              東京都在住 Hさん
 昭和20年2月29日下町の空襲で我が家一帯が焼けた。東京生まれ東京育ちの父は東京を離れるのをいやがり業平に空き家を見つけてそこに落ち着き生活を始めた。しかし、3月9日夜からの空襲で再度丸焼けに・・・夜が明けたらあたり一面焼け野原だ。

 目の前で小学校が焼けるのを見ていたが鉄筋の建物がところどころに建っているだけだった。見渡す限り黒一色の野原だった。母と弟と私は学校の公園にある防火用水池の水を浴びながら一命を取り留めたが寒さを忘れる程のおそろしい一夜だった。それからの生活は大変だった。なにしろ二度の空襲で着の身、着のままの疎開だ。父母は大変だったろうと思う。

 その頃の事を知る由もないが、チャワン、箸、鍋、釜までだ。何もない時代だったから生活するのも食べるのも着るのも辛い毎日だ。転校は五年生からで吉水小学校は子どもの足で30分~40分かかる。苦しかった思い出の方が多い。悪い事は口にしないで思い出さない。





           集 団 疎 開

                 神奈川県1937年生まれ Iさん 
*集団疎開
 東京も爆撃される。食糧難でもあり小学生は疎開させられると発令。田舎のない我が家は国民学校2年の私と5年生の兄が福島県の山奥のお寺に別々に預けられた。初めて親と別れた淋しさと大きな仏様が恐ろしいのと空腹で眠れぬ夜を過ごしていました。ここでも食料は乏しく大豆に少々のお米が混ざっているご飯。オヤツはマッチ箱一杯の大豆のいった物だけでした。お腹をこわしても、報告するとオヤツがもらえないのでみんな隠している状態でした。

*玉音放送
 何か重大な話があるからと先生と生徒達は広場に集められた。ラジオから何を言っているかわからない音が聞こえましたが大人達はしゃがみ込み泣いているのを眺めていたのを覚えています。

*物々交換
 我が家に戻った私は栄養失調と心労で10日ほど死んだように寝ていたそうです。当時お金は役にたちません。4人の子どもを食べさせるには母親の着物が私たちの食料に変わりました。

*配給制度
 お米はもちろん生活用品はすべて配給。通帳を首にさげて何時間も並ばされ、人数分の食べ物を貰うが日によって「今日は二人分だけね」と言われる日もあり子ども達はいつも空腹でした。

*進駐軍
 家を焼かれた私たちは知人をたよりしばらく立川に住むことになる。
立川は基地がありG・I がいっぱい町中にいました。子どもたちを見るとガムやチョコレートをさしだします。空腹の子ども達は貰いたいのですが、大人たちから、毒が入っているから絶対もらってはいけないと言われていた。

 久しぶりに昔を思い出しました。当時は小さかったので母の苦労がわかりませんでした。父は今で言う単身赴任で中国にいっていて母が一人で四人の子どもを育てていました。送金もままならず、家も焼かれどうやって生活していたのか。母は愚痴一つ言いませんでした。
 
 話はかわりますが、昨年の秋、当時5年生の兄が足腰の弱る前に疎開先に行ってみたいと言い出したので兄弟4人で福島に行ってきました。当時の町名も変わってしまいましたが、兄の記憶をたよりにそれらしき場所に行ってきました。

 今でこそバスもあり、道路も整備され電灯もありましたが、当時はバスもなく暗くてデコボコみちだったと思います。

 こんな山奥まで母はお腹をすかしている子どもたちの所へ何回か面会にきてくれました。そんな母を思い出したら涙が止まりませんでした。

 又、福島まで来たのでいけるところまで行ってみる事にしましたが、原発事故の復興はまだまだで除染土の入っているビニール袋がそこいら中にあり、ある町に入ってみると人々の生活が今止まったかのような静けさでした。

 津波も気の毒ですが、福島の方には形がそのままなのに見えない物のため避難生活を強いられている事は苦痛の連続だと思いました。

 世の中変な方向にいかないことを祈ります。




                               西 間 木

                        東京 80代
 昭和十九年九月埼玉県菅谷村大字大蔵に疎開いたしました。祖母の郷里でした。祖父母、母、妹、私と五人でした。理由は年寄りと幼い妹当時二歳、十六歳だった私が先頭で池袋から東上線に乗り武蔵嵐山で下車、歩く事一里、杉林を越え川を渡り農家の蚕小屋で生活をする事になりました。着いた時はお米は俵で、お醤油は樽で迎えられましたが半年もすると飛行機は無くなり、油が無くなって航空兵達が松根油や杉の幹から油を採るために入って来ました。とたんに私達の食糧がなくなり「さつまいも」の苗をとった、すかすかの芋をすりおろし小麦粉?とまぜ焼いたりして食べました。

 村役場にお勤めした私は日曜日にはお百姓の手伝いをしてお米をもらったり小学校の校庭で竹槍の練習をさせられました。敵が上陸して来た時の為でした。

 戦争はもう絶対にやってはいけない事です。なぜ宗教の違いで戦争をするのでしょう。どうしても理解出来ません。早く世界中に平和が来ます様願って居ります。