【 いったいあなたは何者ですか?】
   
           
ヤコブの手紙4章11〜12節 

 2000年の教会の歴史を紐解けば、排除の歴史であることがわかります。それは、何もキリスト教の教会だけではなく、「世界史」も同じです。「相手の考え方は、間違っている。自分の考え方が正しい」という考え方の中にひょっとすると目には見えないけれども大きな落とし穴があるのかもわかりません。
  この4章11〜12節は、3章1節から長く述べられてきた教会内部の争いの締めくくりです。ここで、この教会内部の争いがなんであったのかが、それが「知恵」に関連していることがわかります。すなわち、真の知恵は、3:13「柔和な行い」と「立派な生き方」であるという言葉に眼を留めるとき、そこには「排除」という二文字はありません。けれども、私たちは、ともすると、自分よりも弱い立場にある人、うまく自分を表現出来ない人など、俗に言う声の小さい人を無意識のうちに排除し、多数者の意見を押しつけている場合があるのです。
 そのような「排除」する人に対して、ヤコブは勧告をします。それが、「悪口を言い合ってはなりません」と言うことです。

 ヤコブの手紙4章11節の後半には、このように記されています。「兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります」すなわち、ここでは「悪口」イコール「裁き」と言うことになります。そこには「排除」と言う二文字が厳然と横たわっています。イエスは、マタイ7:1、ルカ6:3で、「人を裁くな」と言っています。そしてそのことは、パウロに受け継がれています。ローマ信徒への手紙2:1〜3、14:1〜1、Tコリント信徒への手紙 4:5などを読むとそれが、「律法を裁いている」につながっていることがわかります。
 
 律法を裁くと言うことは、律法違反をしているということ、であり、その人は神の国に入る資格がない、その国に入るキップがないと言うことを意味しています。
 2:8節には「もしあなたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているならば、それは結構なことです。」とありました。出典は、レビ記19:18です。ここに律法の本質があります。この律法の精神(本質)を身をもって実践されたのがイエスです。(ヨハネ福音書15:12節)
 
 悪口を言うこと、相手を排除し、自己を正当化しようとする心理は私にはない。とはいえません。 私たちは「律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。」と言う12節のみ言葉を忘れてはなりません。
 
 先ほどパウロの書いたローマ信徒への手紙14章1〜10節を読みました。そこには、はっきりと弱者(肉を食べない人)に対する配慮が語られています。Tコリント10:25以下を読むとその内容を補足できます。自分のほうが正しい。相手は間違っていると言う心理が働くとき、知らず知らずの内に相手を排除しているのかもわかりません。イエスに倣う者として、自己絶対化の誘惑から解放されたいものです。

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