【神に近づきなさい】      

                 ヤコブの手紙4章1〜10節 
 キリスト者とは、キリストを信じ、「キリストに従う」者です。教会は、そのような人々が集められ、構成されているはずです。けれども、現実の教会はそうではありません。私たちは、聖書を通して、隣人愛の大切さを教えられているのに「他者のために生きる」ことが容易ではないことを知っています。キリスト教放送局FEBCの特別番組として、北九州ホームレス支援機構の理事長 奥田和志さんのインタビューが放送されていました。60分間のインタビューを通して、多くのことを教えられました。そして、もう一度、本年6月に教団出版局から出版された「主の招く声が」〜召命から献身へ〜の中の彼が書いている所を読み返しました。
 
 彼は、イエスの十字架の中に、「他者性」を見いだします。そして、イエスの言葉「わたしの後に…」(マルコ8:34)とイエスが十字架に架けられるときいっしょに十字架に架けられた犯罪人の言葉「他人を救ったのに、自分を救えない」(マタイ27:42節)という言葉について語っています。イエスに従い、「隣人愛」に生きると言うことは、自分は正しい。あなたがたはかわいそうなので、あわれんでやるというような上から目線ではありません。彼のインタビューと本を通して、極めて自然体で、自分の弱さ、自分の罪深さ「自己中心性」を受け入れている人の真の強さをあらためて感じたのでした。
 
 ヤコブはここで教会内で争われていることについて、より具体的に語ります。3:9〜12節で、舌の攻撃性を、6〜8節更に13〜18節では、ねたみと利己心について語っています。そして、ここでは「共同体」(教会)の平和について語ります。平和とは争いがない。というような消極的なことではなく、悲しむ人、苦しむ人を蔑ろにしないということです。平和と相反するのが、戦いと争いです。そしてその原因が「欲望」であると言います。確かに欲望をコントロールすることは容易ではありません。舌を制御出来ない私たちがいます。またパウロはローマ信徒への手紙7:17以下で、自分ではコントロール出来ない自己の在り様を語っています。欲望は際限なく人間を蝕み、神から遠く離れていくのです。それが、「殺す」「妬む」ということにつながります。創世記4章のカインとアベルの物語は見事にそのことを物語っています。すなわち、「欲望」の虜になっているかぎり、私たちに「平和」は来ないのです。自分のためにではなく、「他者」のために生きるならば、必要なものは与えられると言うのです。私たちが「世の友」すなわち、自己中心性に生きる限り、それは適いません。けれども神に近づくとき、神とのつながりの中に生きる時、道は開かれます。預言者は民に向かって「神に近づきなさい」と語ります。(エレミヤ3:22)また「イスラエルよ、神に立ち帰れ、あなたの主のもとへ」(ホセア14:2)と語ります。その意味は、新約聖書では「悔い改める(メタノイア)」ということです。悔い改めるとは、生き方の価値観を180度変えるということです。すなわち、「自己中心性」から「他者」へと方向転換することです。
 
 キリストに従う者、神の言葉に生きる者として、私たちは、主が再び来られることを信じて生きています。その日まで、欲望に打ち負かされることなく、他者のために生きるものとして歩めるようにと、神さまに祈るものでありたいと願っています。

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